後藤 秀孝
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JAPAN
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【誰の子なの】
2012-02-22 Wed 09:08
ある方がキリスト教への批判として、こんなことを言っていました。

「大体、処女懐胎なんてことは信じられない。
恐らく婚前に○○××だったんじゃないの?」

憤られるクリスチャンの方、ちょっとお待ち下さい。

私たちが駆け出しのクリスチャンであり、「宗教」に対する懐疑心と「騙されてなるものか」という強い意志の元に、聖書を「古代の歴史物語」として読んでいた時期。
いわゆる暗黒の盲目時代(←まぁ、イメージ的に)には、すんなり信じることが出来ていたかどうか。

初期の後藤は処女懐胎に関しては「あ、そう」程度の認識で読み飛ばし、単にあまり深く考えなかったわけですが、気にされる方は気にされるでしょう。ついでに この<非科学的>根拠で、「キリスト教など信じるに値しないんじゃね?」と早急な結論をされてしまうかも知れません。

そして実に、こうした不信と神に背を向ける行為は「俺にも起こりえたこと」です。



生物学を知る現代人だから、信じ辛いのでしょうか。

2000年前のユダヤ人社会の片隅では、一体どうだったんでしょうか。


そのことに関するヒントは、非常に小さな記述、たった数文字の表現にしか残されていません。

「この人は大工ではありませんか。
マリヤの子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではありませんか。」(マルコ6:3)

上記、お分かりになりましたか…?この中に鍵があります。
(中東・アラブ民族の方たちの慣習をも理解しなければ、なかなか読み解けない部分でもあるのですが…。)




「マリヤの子」という表現が、それに当たります。


アラブ圏、ユダヤやムスリムの方たちの住む場所では、個人名は通常

「××、○○(父の名)の子」

のように呼ばれます。

つまり「Azmat, son of Shazard Khan」
「ひでたか、後藤まさおの息子」という感じで。

これはパキスタンで、JEN の配布事業の際、長い名簿に乗った世帯主名を読み上げ続け、支援物資を手渡ししていた時散々聞かされたから覚えたことです(しかし先進国の文化が流入した国では、こうした慣習は廃れたかもしれません。)

ですから

「Jesus, son of Joseph」

ならば正統の呼び名であり、当時の現地人にとっても何ら気になることも無いわけです。

しかし上記のように、「Jesus, son of Mary」ということは、どう捉えたらよいのでしょう。

「イエスはマリヤの子」…、
つまりは「(父親の異なる)私生児だろう」という地域の目があった?とも考えられるわけです。

勘ぐり過ぎだって?そうかもしれません。
マタイの記述を見ると違うって?俺だってそう願いたいのです。

しかし、4福音書の中で一番最初に書かれたのがマルコであり。
後に書かれた福音書は、少なからずその影響を受けたこと、
また様々な立場の読者に伝えるためにニュアンスを変えていったことを知るにつけ。

マルコの記述が一番「純粋」で「基本に近い」と後藤は感じています。


とすれば、当時の村人たちもまた「処女懐胎」の話を信じられず、
マリヤの宿している子がヨセフの子ではなく、誰とも知れぬ父親の子であろうと疑った…。それがこの一語に現れている。


当時の私生児の扱いは、勇者エフタの例(士師11:1~)にもありますが、
お世辞にも尊ばれたとは言いかねるものでした。
陰口を叩かれる、しかもそれは自分の母親に関することであり、自分ではどうにもしようの無いこと。

…普通の人間ならグレてしかるべき出生秘話です。

でもイエスさんは、そのこと(個人的攻撃)に対して何ら不満を述べることもなく、
ただただ村民たちの不信仰を嘆き、「預言者は自分の故郷では尊ばれない」と肩をすくめて立ち去りました。


イエスさまのその姿は、あたかもイザヤ書にある『苦難の僕(しもべ)』にあるとおりの、

「苦しみと痛みを自分の物として知る、メシア」そのものでした…。

「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、
悲しみの人で病を知っていた。
人が顔をそむけるほどさげすまれ、
私たちも彼を尊ばなかった。」(イザヤ53:3~)


そうです。

主イエス・キリストは、ご自身の貧しい、不遇の出自さえも。
私たち一人ひとりの苦しみを理解するための肥やしとされた…。

主の流された涙は、しかし、ご自分の悲しみのためではありません。

後に同じような迫害にあい、孤立し、苦しみ泣くあなたの、私のために。
神にその魂を委ねつつ、涙の叫びで祈って下さったのです。


そんな主だから、私は信じています。
そして主が私の人生をここまで変えるにいたり。

本当に「処女懐胎」があったかどうか。
科学的、生物学的事実は分からない。

そのことに関して、2000年経った今も、
周囲は色々言うけれど、

俺は、アンタを信じていますよ。

だってイエスさま、あなたぐらいしか、

神として、わざわざ他人の痛みを担おうとはしなかった。


そして父なる神さま、あなたぐらいしか、

イエスさまのような方を地上に送ることは出来なかった…。


疑り深い私が、
心で納得して、そう信じられるのです。

それが恐らく信仰なのでしょう。

この子どもたちのように
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