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後藤 秀孝
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JAPAN
【膝を屈める】
2012-02-07 Tue 20:31
キリスト教=絶対唯一、
一神教=他に神は無い、
=神道・仏教含め多神教は贋物、

つまりオレが正=アンタ誤、

クリスチャン=理解の無い頑固者…。

「オレはクリスチャンである。」
と声明を放つと、ふ~んそうですか…。と言う関心なさそうな返答と共に、

「こいつはもしかすると思い込み激しく、排他的な奴かも知れぬ。
また何気に勧誘される可能性もある。できれば桑原である。」



という微かな、しかし明快なリアクションをしてくれる方が多いのです。
宗教的偏見はここまで来た!やってくれるぜ!日本のメディア!


まぁそんなOJはそこまでに。

排他的要素の強烈な旧約聖書(II列王5~)より、一節紐解いてみたいと思います。

時は紀元前9世紀。日本ではまだバリバリの縄文時代で、皆穏やかにやっていたよ。と言うときに。
預言者エリヤの弟子として立ったエリシャ(*)が、敵国アラム(=現シリア)からある珍客を受け容れていたのです。

イスラエルを蹂躙し、かつ虜囚を取りまくって
一人はちゃっかり自宅のメイドにしていた
ナアマン将軍です。

将軍がエリシャに期待したもの。それは当時「準不治の病」指定だったらい病、現代で言うハンセン病を癒すことでした。そのためにヨルダン川くんだりまで一個小隊を引き連れて来たわけです。
しかしエリシャの対応はそっけなく、そこに少なからず苛立ちを感じた将軍でしたが、とりあえず言われたことに従って無事回復しました。

問題はその後です。

神の奇跡を実体験し、「これこそ全知全能の神さまだ!」と信仰に目覚めたナアマン将軍。快癒していざ帰国、と言う段になって、イスラエルの信仰形態とお国での生活を考えるとどうも先行き不安になったわけです。国政の重鎮として活躍していた彼は、国王に求められれば異教(=アラムの国教)に振りだけでも従わねばならない。…

そこでナアマンは申し出ます。
「…どうか二頭の騾馬に乗せるだけの土をしもべに与えてください。しもべはこれからはもう、ほかの神々に全焼のいけにえや、その他のいけにえをささげず、ただ主にのみささげますから。

主が次のことをしもべにお許しくださいますように。
私の主君がリモン(=バアル)の神殿にはいって、そこで拝む場合、私の腕に寄りかかります。
それで私もリモンの神殿で身をかがめます。

私がリモンの神殿で身をかがめるとき、どうか、
主がこのことをしもべにお許しくださいますように。」



つまり、見かけリモン崇拝です。しかも拝するのは偶像。
十戒①&②を、すでにその段階で破ってんじゃね?

と言うのが「世的」「偏見・排他的クリスチャン」の見方、かも知れません。悲しいことですが。


しかし大方の期待に反して、エリシャは一言、
「安心して行きなさい」 と語ったとされています。

形式に拘れば、言語道断。
でも「神はその心を見る」(Iサムエル16:7)方です。

アラムの地で、たった一人の主の信徒。
甲子園の砂ならぬ、ヨルダン川の土で創造主である神にいけにえを捧げようとする、まじめな「組織人」。

エリシャはその苦労をも見越して、
心にわだかまり覚える将軍に「Go in peace」と告げたのです。

エリシャ、大人の対応です。
それを赦す神はもっと大人です。(って、神さま俺の軽言を許したまえ)


我々はその姿勢を、他者への深い理解と愛を、現代においても実践すべきではないでしょうか。

つまり、見た目の従順でなく、他者への軽率な裁きでなく。

その心に主がおられるか否か。という判断基準で物事を見ること。
私たちキリストの従者がまず、他者への寛容と理解、配慮を示すこと…。

それこそが、私たちをクリスチャンたらしめている根源であり、

私たちの言葉で、また生きざまで示される思いやりと愛は、
きっと相手の偏見の壁をも溶かすはずだからです。


(*)エリは「神」、シャは「救い」。併せて「神は救い」と言う意味。
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