2012-01-28 Sat 10:15
<アンチテーゼばかりでごめんなさい>
<そのうちテーゼも書けるようになります> 「神さま、もっと聖霊を注いでください」 「日本にもっとリバイバルを起こしてください」 「もっと異言の賜物なりをください」 「もっと、もっと」... そんな人々の声を聞きます。 不足のようです。 かつ、少なからず不満に思われてもいるようです。 後藤の内なる存在、「トマス」っぽい人、「常考」的に考えてな人は、こう言います。 「本当に<もっと>必要なの?」 「でも、確かに ガス切れで路肩駐車の信徒もいれば、 牛歩で走っている信徒もいる...」 「...<もっと>くれって、どんだけ燃費悪いんだよ 常考」 ------------------------------------- 上記要請は、とどのつまり 「もし神が~してくれたら」(If~Then) 「私は~します」 ということでしょう。 「もし神が聖霊を<もっと>注いでくれたら」 「私は教会を拡大します」 「私は宣教の旅に出ます」 「私は心病んだ人々を訪問します」 「私は母を赦します」 「私は父にみことばを伝えます」... Etc.、Etc.。 Conditional(条件付き)、ということです。 でも、考えてみましょう。 創造主である神が、まず私たちに何をして下さったのかを。 『神は、実に、 そのひとり子をお与えになったほどに、 世を愛された。 それは御子を信じる者が、 ひとりとしてほろびることなく、 永遠のいのちを持つためである。』(ヨハネ3:16) そうです。主イエス・キリストが、 私の痛みを、痛んでくれた。 私の嘆きを、嘆いてくれたのだから。 だとしたら、私たちの聖霊レベルは スタート地点で、 すでに補給されている。 すでに必要を満たされている。 全借金、すでに完済されている。 のではないのですか。 とするならば、 足りないのは神の御恵みではなく、 私たちの気付き、感受性であるし、何より 「主に従おうとする姿勢」だ。 「主に明け渡す」その一事においてだ。 そんなことを、 自分のことは棚に上げて思うのでした。 (弱い私に代わって、慈しみの愛を実践するあなたが、成し遂げて下さい) 『わたしの恵みは、あなたに十分である。 というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである』(IIコリント12:9) スポンサーサイト
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