今日は棚の話です。
…棚?
そうです。
「自分のことは棚に上げて!!」という棚です。
そうしてしまう我々の傾向、我々の弱さ、自己中心の罪について。
人間は往々にして、自分のつけた傷や、発した暴言や、犯した間違いは、忘れがちですが。
もしそれが自分が被害者としてつけられた傷、受けた暴言や誤った扱いであったとしたら。
忘れやしません。
K課長という方がいらっしゃいました。新婚旅行で奥様と欧州旅行に行かれたときのこと。長い旅程、バスなどの移動手段に疲れた奥様が、目的地に着いた途端に道端に嘔吐されたそうです。
そのとき思わずK課長、「ばっかじゃないの…」と呟いてしまいました。小声で言ったとは思いますが、奥様、それを聞かれて半泣きでキッとK課長を睨みました。
呟いた方は、笑い話としてそれを語ってくれたのですが。…
恐らく奥様にとっては、その出来事は
「ウチの旦那に裏切られたと感じた瞬間ベストテン」
に、入っているに違いないのです…。
―――――
かくいう後藤も、今だに妻から言われます。
「パキスタンに行って、アンタが山で篭っている間、私は一人っきりで放り出された」
「知り合いもなく、買い物をする場所も知らず、全部自分ひとりでやらざるを得なかった」
などなど。苦み(Bitterness)が滲み出ているのです。…
彼女のその苦しみと裏腹に、夫はカシミールの山で山男たちと「ワッハッハ」とやっていたわけです。
全く罪の意識など、ありゃしません。
折に触れて「すまん。」とか言いますが、
本心からは何とも思っちゃいません。でも、そうされた側にとっては、深い傷として残っている模様です。
だって、
男はかなり忘れっぽく。
女性は象並みに忘れない(当社比)。
そんなハンディキャップ戦でもあるのです。
男は勝てっこありません。
【傷 いつまでも】
問題は、その傷がいつまでも証化(つまり自分の中で整理され、肥やしとなること)されぬまま、憤怒の炎が燃え続けている状態であること。
それは噴出しますよ。
どんな些細なきっかけでも即起爆。
加害者は気づいていない「ニトロ」が、被害者の中で日々揺すられているのです。
<危険物注意>。恐ろしいですね~。
そのニトロは、実は問題の核の部分ではなく、全く関係のない日々の小言や嫌味に紛れ込んで、受ける側に強い毒を与えてくれます。
執拗にその毒が注入されることで、夫婦の仲は更に悪化。しますよね!
毒の発生源は、昔からの有害物質の蓄積。それは分かります。
でも、配偶者を面と向かって批判すること、否定することで、
自分の中の毒を吐きかけることで、
相手が良くなったことって、きっと少ない。
というか、ない。そう思うのです。
同様に、相手の悪口を言って、その人と仲良くなれた例を私は知りません。
それどころか、さらにその「評判通りに」悪くなっていくもんじゃあないでしょうか。
それは「人を盗人と呼べば、彼は盗むだろう」と諺にもあるとおりです。
どこかでその憎しみの連鎖、断ち切らねばなりません。
でも、誰が譲歩するの?
「私が?嫌よ!!
だっていつも私が譲歩しているわ!」
―――
「俺がいつも謝っています。
…もう我慢なりません。」
ブレーク!そういう思考のトラップに陥る前に、先ほどの棚の話、覚えてお祈りください。
自分は棚に上げる。相手はこき下ろす。そんな二つのスタンダード…。
一つは自分の罪を計るための枡、もう一つは相手用の枡。
その枡のよると、
自分の犯した罪は僅かであり、軽く。
「妻が洗濯していない罪、お昼のドラマを見ながらゴロゴロしている罪、晩飯の準備ができていない罪」は重い。
「夫が記念日を忘れている罪、休日も朝から外出している罪、飲んで帰って晩御飯を食べない罪」はめちゃめちゃ重い。
というふうに。
結構豪華な神棚があるんじゃないですか?
自分をもち上げて、全ての批判から身を守るための棚が。…
まずは人間のその性向を理解すること。
そして、そんな「過つ人間の罪」、
我々が知っていて・知らずして「自分を棚上げしてしまう罪」の赦しを、神に求め祈ってください。
人間は赦されるから、赦せるのです。
愛されるから、愛せるのと同じように。
そして神からの赦しには、諸条件や制限がありません。
いつでも・どこでも・誰ででも、
悔い改めたいと願って神にすがる者には、その腕を肩に回して慰めてくださる方です。
真摯に。誠実に。
「私だけが傷ついているのではない」
「私は他人の過ちには批判的で、自分の犯した罪に対しては寛大なのです」
「どうか、無意識のうちに与えてしまった痛みに対しても、私が気付き、悔いた心に到れるよう導いてください」
和解への第一歩は、そんな小さな祈りから始まる。
私はそう信じています。
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