今日は植物に関して一考。
我々の食生活に無くてはならない、多くの実をつけてくれる植物について。
義務教育~の学習を通じて、私たちは
「植物は動物の本能(=食欲)を利用して、
その種を遠くに運ぶ助けとする。」
などと教えられています。だから食べ易い実をつけるのだと。
しかし、広い植物界を見渡しますと、全員が全員そうではない。
苦瓜
毒キノコ
栗
くるみ
ドリアン
その他その他。
全身で
「俺を喰うな!!」
「食べたら危険」
「普通腹壊すだろ…」
と語っている植物もあるのです。
【いちじく桑】
そんな植物界の中から、本日はいちじくの御紹介。
聖書の記述では意外と可哀想な目を見ている いちじく桑(マタイ21:19)。
後藤家のそばには、御家庭でいちじくを育てているお宅があったり、公園の隅に大振りのいちじくがあったりで、結構触れ合う機会が多いのです。
8月のある日、自転車で買い物の帰り道。
いちじく桑から3mt程度の距離に寄ると、なんとも芳しい香りがしてきます。
漢字で書くと「無花果」、つまり花をつけない植物なのに。
あまく、芳醇な香り。昔、祖母に勧められて食べたいちじくが、口に広がったあの時のような。
しつこくなく、さらっとした感じの、心地よい芳香なのです。
それはあたかも、
「もうすぐ食べ頃ですよ」
「どうぞどうぞ、遠慮なさらずに」
「まだまだたくさんありますから…」
と言うような、いちじく母の豊かな歓迎を受けるが如し。
【いちじくの 無私】
そうです。いちじくをはじめ果物の多くは、
自分の実を、つまりこれまでの努力の結晶を、ある意味
奪い取っていく者たち
に対して。
あるものは香りで。
あるものはわざわざ目立つ色をつけ。
あるものはその殻を開いて。
「さあ、お食べなさい」
という存在なのです。
「私から取って、あなたのために役立てなさい」と。
それを悔しそうに、辛そうにするのではなく。
あの風雨の晩に苦しみ、夏の暑さに辟易とした、
その苦しみと共にするのではなく。
「どうぞ」という もてなしと言うか、慈しみをもって提供するのです。
それは何とも、神さまの愛に通じるところがあるなぁ。
植物の彼らの方が、
神さまの方向を見て、歩んでいるなぁ。
そう感じさせられる一事なのです。
P.S.ついでに岩槻の今の風景を。
お米も、凄いよ。
小さいかえるもたくさんいました。
被写体。動くな。
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