(3.11でお亡くなりになった方々。また、その親族の皆さま。
謹んで、御冥福をお祈りすると共に、
今もなお被災の苦しみの中にある方々の生活が、人生が、
早急に再建され、「家庭」が再び建て上げられますように。お祈り致します。)
3.11の映像を、ネットで再見しました。
あるフィルムは、漁港に面した3~4階建てのビルの屋上から撮影されたもの。
またある動画は、山の上の学校から生徒が撮影したもの。
これらの動画には、共通点があります。
最初、撮影者たちは物見遊山のように、「お、波が見えた」「漁港まで来たよ」などと、ある種のどかな言葉を交わしています。
しかし、その波が町にたどり着き、塵埃を巻き上げながら家々を飲み込むようになると、
彼らの応答は『狂乱』に変化して行きます。
遠くに見えた移動中の車や、その運転手らが『助からない』ことに気付いた時にようやく、
状態の非日常性、
事態の深刻さ、
そして
人間の運命の儚さ
に気付かされるのです。
山の上で幸運に生きる者と
あの濁流の圧力に飲み込まれる者と
ただその境目が、
運
とか
縁(えにし)
とか
何か大いなる者の意思
とか
自分と言う「個」を遥かに超えた存在の、
奪い去るか
過ぎ越すか
という選択だったのでしょうか。
いくら考えてみても、人の目には
納得の行く答えが存在しない「問い」なのです。
【我々も 実は同じです】
私たちの日常では、死は
極めて疎遠な、
実感のないもの
として映るのではないでしょうか。
しかし、我々が気付いている以上に、
死は我々の側に居て、
死は我々の顔を間近に見据え、
死は我々の名を呼ぼうと、その時を待っている
ことを、再認識させられるのです。
この地上に生きた者で、その腕から逃れ得た者はおりません。
また、どれほど科学が発展しようとも、
人間である以上、肉体の死を超越する者は起こり得ないでしょう。
実にダビデが、その死の直前に
「私は世のすべての人の行く道を行こうとしている。」(I列王2:2)と語ったように。
肉の存在である人間には、誰一人として例外は存在しません。
問題は、その死の発生の仕方。
死の追いつき方。そんな物ではないでしょうか。
【死は想定外】
いかに我々が思い煩おうとも。
死がいつ私たちに微笑むか、誰も知らないのです。
それは、聖書にこうあるとおりです。
『そのとき、畑にふたりいると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。
ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。
だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。(マタイ24:40~42)』
『それから人々にたとえを話された。
ある金持ちの畑が豊作であった。
そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。「どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。」
そして言った。「こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。
そして、自分のたましいにこう言おう。“たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。”」
しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』
自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。』(ルカ12:16~21)
寿命ある者として、何とも恐ろしいことです。
5年後10年後を、平凡な毎日の連続を想定してしまいがちな私たちとしては、
「私の死は絶対条件」
「私の死は突発的」
とは、何とも認め辛い事実なのです。
【目に見えないものを信じる力】
そんな救いのない私たちに、
主にある信仰は勇気を与えてくれます。
「神は良い方だ」
「その方が、最善と知って許されたことは、
我々人間の目には悲しい事件と映っても、
いつか必ず益となる」
涙の奥で、そう信じることができる。
死は肉体からの卒業であり、
天への凱旋だと悟ることのできる恵みを、
主に感謝いたします。
同時に、その儚さを知る故に、
「今日一日を大切に生きる」
謙虚さをもどうか、与えてくださいますように。
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