fc2ブログ
後藤 秀孝
http://afg2.blog74.fc2.com/
JAPAN
【人間絶望】
2011-07-29 Fri 14:24
何から書いていいのやら。分からぬほど大きな命題(Theme)を与えられることがある。

しかも、私見だが「書く」という行動は単なる自慰行為ではない。読むであろう方に分かるよう、一つ一つ整然と書きしるさねばならない。人間というこのあやふやなものを。その精神のわだかまりや、言葉に表現しきれぬ葛藤や、積み上げられてきた暗黙知における蓄積をも…。

愚かな我の挑戦である。今日踏み込むべき深みは、神より示された「人間に対する絶望」への暁光だった。


【妻と その15年間】
1996年に出会った妻とのこれまで。その記憶は必ずしも甘く切ない物だけではなかった。それどころか、人間に対する不信と憤り、諦観、無関心…などを文字通り「我が身に刻み込まれる」長く苦しい期間であった。

事実、私は妻に対して「あなたの毒で、私の泉は汚され、あなたの炎で、私は焼き尽くされた」と語ったことがある。
「私の愛は既に死んでいる」「今ここに存在するのは、ただ神が支えてくれているから」「だから、私に対して多くを期待するな」と。

妻の「消えぬ怨嗟の炎」への、夫としての無力感。それは多分に妻の生育暦に拠るものだが、ここであえて仔細については語るまい。


事ある毎に、夫への不満、憤慨を抑えられなくなる妻に対して、
「コイツには何を言っても無駄だ」という諦めが、私の中に深く根付いていったこと。
そして今思えば、その諦観が私の「Avoidance」傾向、つまり「他者との争いは極力避ける」という性向と相まって、妻を避けることに繋がっていたのである。

実に、私の印象世界の中では、妻との生活の中で実にその半分は、忌避に用いられていたのではないか。それほどまでに強い痛みを伴う結婚生活であった。

特に我々が信仰に目覚めた後、妻が体よく神の名を語り、神の権威を夫を裁くために使用することを見て、
「お前は神ではない」「神を騙るな」と反駁してきた。

しかし一度狂乱状態に入ると、聞く耳など一切持たない妻を見て、私は現実の問題をすら避け続けてきたように思う。

いわば「対決を先送りしてきた」のである。

こうして、永きにわたる所謂「冷戦」期を乗り越える内、私自身の他者に対する絶望感や、果ては彼らに与え得る影響力のなさ、自己価値の低さにまで、その害毒は届いてしまった。心中に秘められたのは「いかにこの関係を終わらせるか」と言う結論である。実に「どんな手段を使っても」離婚、再び自由を勝ち取るのだと言う妄想に、真剣にのめりこんだ事もある。悲しいことだが、ここでも「どうにかして問題を避け」「リセットしてしまおう」という弱い姿勢が窺える。

そして、その妻に対する思念がそのまま、他の人間に対する態度として表出してしまっていたことは、今想えば否めない事実である。
妻と言うサンプルを見て早合点していた私にとって、人類とはこの「妻存在の拡大解釈」に他ならなかった。
「人間の本質とはこういったものだ」と、あたかも神の目線で、浅慮してしまったのである(もちろん神にのみ、実感を伴ってそう言える権利がある)。

そして私にとり、争いは避けるべき一事であることに、何の変わりもなかった。

【全ては勇気のなさ】
しかし、聖書の教えの中で、常に問われるのは
「他者がどうあれ」
「自分と神との関係の中で、どうなのか」
ということである。

そして愛することは、妥協することではない。
愛することは、問題を先送りし、かりそめの平穏を繕うことではない。

すくなくとも、神の愛は、私にとってそんな「ヤワなもの」ではない。

実に、語るべきを語らず、諭すべきを諭さず、本人にとって悪いことも指摘せず。
ただただ嵐が過ぎるのを待って、頭を砂に突っ込むダチョウの姿勢とは異なるものだ。

その「避ける」という姿勢が、これまでどれほどの障害をもたらしてきたのか。
そして、恐るべきは、今後更にどれくらいの、絶望と孤独をもたらすのか。

最近になり、そんなことを改めて痛感させられたのである。

争いを避けたい。その思いは、私の個性の中に、実に根強く残っている。

確かに争いを避け、問題を先延ばしにすることのほうが、挑戦し、解決に導くのに比べ、遥かに楽だ。
反面、対決することには多大なるエネルギーが必要だし、もしそれが職場であれば、将来への懸念や、人生計画への狂いも生じかねない。それらに対する怖れも存在するのは、認めざるを得ない。

だが「私流」では今後も失敗することが予想される。いや、明らかなのだ。
「オレ流」ではダメなのだ。

ならば真摯に主に向き合って「もうだめです、神さま」と縋りつく。
「あなたのやり方を学ばせてください」「あなたのやり方で、導いてください」
そう強く祈り、日々生活するのみである。

そこで示されたのは、
「誠実であること」
「真にその人に誠実であれば、立ち向かうべき時もあること」
ということであった。

そして逆説的だが「人はたとえ耳が痛くとも、真っ直ぐに真実を語る人間に信頼を置くものだ」ということも、同時に示された。

その真実を証しする瞬間のために。
自分の心を、常に「語るべき真実」を蓄えておくことだ。
自分の心に偽りなく。
他人の心の壁を溶かし浸透する、真実。

善なる教え。
平等を尊ぶ義。
「我罪人の頭也」と認む謙虚さ。
全てを包み込む慈しみ。
赦しを与えてくれる愛。

それらは全て、人類の英知の結晶である【聖書】に含まれる。

そこでは愛なる神が、
全てに絶望した私のような人間にさえ、
光を投げかけてくれている。

私にも、寄りかかれる存在がある。
そのことは、私にとり大きな慰めと救いになっている。
私が狂気に陥る時「我に返る」きっかけを与えてくださったのは、いつも主なる神であった。

こうした変化と、成長が促されている。
こんな私にも。

どうか主よ、この小さな器、
割れた器をも、
あなたの栄光を示すために用いてください。
スポンサーサイト



別窓 | 信じると、あなたに起こること | コメント:0 | トラックバック:0 | top↑
<<【あなたの痛みと苦しみは】 | キリストの愛を 超多忙なあなたに | 【上野トポス教会の夏】>>
この記事のコメント
コメントの投稿
 

管理者だけに閲覧
 

この記事のトラックバック
| キリストの愛を 超多忙なあなたに |
copyright © 2006 キリストの愛を 超多忙なあなたに all rights reserved. powered by FC2ブログ. template by [ALT DESIGN].
/