「あの大学に入れば…」
「あそこに就職できさえすれば…」
「あの資格さえあれば…」
「昇進・昇給さえすれば…」
「彼らの仲間に入りさえすれば…」
「幸せになれる。」
そうだと思いますよ。
or
そうですかね。
…結論は出ませんが。
ただ、後藤の人生の中で理解したことですけれども、
「良くなっても」
「良くなっても」
さらに先がある。
上手がいる。
山の高みに着けば、さらに高い頂が見える。
成長しても、改善しても、ミスを減らしても、圧倒的に「足りない」自分を自覚させられる。
不完全であることを許さず、自分に厳しく、日々修行に明け暮れるように生きても。
結局たどり着くのは「自己不満足」なのではないでしょうか。
私たちが欲しいのは、そんな分かりきった「絶望」ではありません。
【主の下さる希望】
私がキリストに見出したもの。
それは、自己顕示欲に突き動かされ、自分の不足にばかり目をやっていた頃の私が。
ついに安らぎを覚えた「肯定」の主でした。
主ご自身も、人間としての不足を痛感された。
そして周囲の人間の弱さ、卑怯さ、利己心、虚栄、傲慢…。それらを理解し、なお憐れまれた。
その上で、
「それでも・わたしは・愛する」という選択をして見せてくれた。
だから、私は「足りない」けれども、
「ついていきたい」と心から思えるのです。
それが主イエス・キリストにある 希望です。
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