2011-05-03 Tue 12:17
聖書の中には、奇蹟の御業の記述が多く残されています。
新約聖書では、主イエス・キリストが行なった癒しと赦しの奇跡が羅列され、特に初めて聖書を読む方にとっては: 「眉唾もンだ」 「聖書自体はいい話だけど、奇蹟なんて本当にあったの?」 「水がワインに変わり、死者が生き返るなんて、…やっぱりないのでは」 そうした疑問が持ち上がるかもしれません。 【信じる←疑ってかかる】 物事の正否を確かめるために、まずは疑ってかかること。大事です。 私たちが何気なく「信頼して」しまっているメディア報道も、政府発表も、ふたを開けてみたら 「信じられない」情報が多かったことも、これまでの原発関連の記載の中でお分かり頂けたと思います。 疑ってかかり、調査を繰り返したら、真実が見えてきた。 日本のメディアは、NHK 科学文化部の山崎記者を除いて、信用できない。ことを信じることができた。 そんな成果が得られたのです。 疑ってかかったからこそ、確信に迫ることができた。物事の真相を理解することができた。 聖書研究も同じです。 『見ずに信じる者は幸いです。』 確かにそうですね! ただし、もしその信仰が 例えば、誰かに薦められて、 例えば、その場の雰囲気で、 例えば、「疑問は不信仰の表れ」という周囲の暗黙の了解に隷属して、 とりあえずインストールしただけのものだったら。 そんなもの、風のひと薙ぎで。地のひと揺れで。敵の放つ一矢で。 奪われてしまう。 しかも、悪いことに。 自分だけは、我の不信仰を知っている(もちろん神さまもご存知ですよ)。 自分のアーメンという言葉と、自分の内面や行動が食い違っていることを知っている。 それは辛いことです。だからまずは、「納得いくまで調べる」ことを薦めるのです。 【奇蹟は本当に起きたのか】 振り返って、聖書に記載されている奇蹟は、本当に起こったのか。 地上を見るに、現在二つの説が有力のようです。 一つは、教会が発する「聖書の御ことばは、その一言も違うことなく、現実に起きたこと」であるとする説。 もう一つは、「記述どおりの奇蹟は起きなかった。その場に居た人たちの深い宗教体験を表現するため、敢えて奇蹟という表現が用いられた」とする説。 どちらも、後藤にはしっくり来なかった。 故に、聖書の記述と併せて、色々考えてみるわけです。 【信仰と、好奇心と】 主イエスの奇蹟物語が詰まっているのは、主にその宣教の初め。 彼が貧しい漁村である、ガリラヤ湖のほとりの村で、その口を開いてから。 その村の住民たちはおおよそ、貧しく、無学で、日々の暮らしを支えることがやっと と言う状況だったかもしれません。 倹しい暮らし、重い税、襲い来る旱魃や洪水などの自然災害、そして戦争の噂…。 そんな中、彼らが唯一、希望としてもっていた考え。 いつかあの山を越えて来る、『救世主(メシア)』の福音。 そんな期待感を、400年もの間、持ち続けていたのです。 そこに現れた、主イエス・キリスト。 待ち焦がれていた、あの尊いお方が 来られた。 メシアを期待し、信じた彼らは、文字通り、 その罪を赦され、 癒され、 彼らを呪っていた悪霊は去っていったのです。 盲目の者は見、 らい病者は清くされ、 中風(脳血管障害から残る麻痺)の男は立ち上がり、 悪霊の虜囚はその枷を砕かれ、意識を取り戻し、 長血は癒され、 死んだ娘は甦りました。 それは、主が語られた「あなたの信仰があなたを直したのです。」という御言葉にあるとおり。 『彼らが主に頼み、信じたから、起きたこと』 だったのではないでしょうか。 『お心一つで、清くして頂くことができます。 If You will, You can cleanse me.』 『わたしの心だ。清くなれ。 I am willing. Be cleansed!』 『I am willing (あなたの信仰に、わたしは応える)』 主はそう言って、癒しの力を発揮して下さったのです。 【しかし、人の心は】 主が宣教を開始されて、3年に迫ろうと言う時。 人々の反応はどう変わって行ったのか。 それも、聖書の記載から読み取るに、主の元には相変わらず多くの人が集まりましたが、その多くは 『このお方に救いが、癒しが、復活がある』という思いではなく。 「このイエスという人間が、最近売り出し中の救世主なんだって?」 「一体何ができるのやら」 「話の種に、ちょっと見てくるか」 そんな好奇心にのみ動機付けられた、衆愚だったようです。イエスを裁こうとしたあのヘロデ王のように。 彼らに対して、主は何の奇蹟も行ないませんでした。 主の霊に対して、反応できるだけの素地もなかったのだと思います。 だから、癒しも、救いの御業も、殆ど起きなかった。 敵対勢力はそれをあげつらって批判し、イエスは無力な男だ、口だけのほら吹きだ。まず自分を救ってみろ。 そんな辛らつな意見を民衆も盲信するようになったのでしょう。 そんな謙ることを知らない、自己義の人間たちには、主の救いは届けられなかったのです。 【実際に 起きたこと】 主イエス・キリストが語り、触れ、癒し、甦らせたことは、 そのぐらいのインパクトのあることが起きたに違いないことは、 男だけで5千人、家族を含めれば1万を超える聴衆が、山上の説教を聞きにはるばるやって来たことからも想像されるのです。 当時、交通手段も整わず、貧しい人々は徒歩で、主の居場所を聞きつつ、訪ねて来るしかなかった。 病人を抱え、子どもの手を取り、僅かばかりの路銀と食料をもって。 そんな背景の中、人々は集ったのです。そして信じた者は癒され、救われて。 『このことは話すなよ。』と言われても、つい嬉しくて話してしまったり。 主イエス・キリストの後を、どこまでも付いて行ってしまったり。 主イエスの福音を、彼のしてくれたことを、所構わず伝道してしまったり。 無学で、弱く、希望のなかった民が、こうして変えられていった姿を見るに、 『やはり、奇蹟はあったに違いない』 後藤はそう確信するのです。 スポンサーサイト
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