後藤 秀孝
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JAPAN
【ローマの虚無】
2011-05-02 Mon 09:49
今日は、使徒行伝の最後、パウロがローマで向き合った/向き合おうとしていた、ローマ皇帝ネロの行いと人物像に焦点を当てて話してみます。

というのも、幸か不幸か、そこからキリスト教が

『ユダヤの一宗教』から
『世界的信仰』に生まれ変わっていくからです。

ただし、その過程で多くの殉教者と、イスラエル滅亡という痛ましい事件が起きました。

暗君ネロは、その悲惨 全ての原因では無いかも知れません。
しかし、多くの意思決定を行なった者である事には変わりないのです。

以下、簡単な年表を記載しておきます。
●AD54年:ネロ即位(~AD68)
●64年:ローマの大火、本格的なキリスト教徒の迫害開始。
 この頃、パウロ、ペテロら、ローマにて殉教したと考えられる。
●66年:ユダヤの反乱。
●73年:イスラエル滅亡、ローマの管理下に。

【ネロの人物像】
『ネロが暴君と呼ばれたのはそうした公生活よりも、皇帝の地位を獲るまで、また、その地位を護るために行なった陰惨な暗殺事件のためである。(中略)

まず不遇な地位に一度は置かれた彼を皇帝につけるため、その母アグリッピナが叔父であり夫であるクラウディス帝(AD41~54)に毒をもり、殺した話はあまりに有名である。呪われたこの方法によって十七歳にして早くも皇帝となったネロも3つ年下の義弟のブリタニクスがやがて自分の地位を奪うのではないかと不安にかられ、食卓を共にするふりをして毒殺してしまう。

官能に酔う彼はやがて母アグリッピナともいまわしい関係に陥った。その母が邪魔になると、今度は彼女を殺害する計画を立てた。ほかならぬ息子が自分を裏切ったことを知った母アグリッピナはネロの送った刺客に向かい、下腹を出し、「さあ、ここをお突き。ここからネロが生まれたのだから」と叫んで殺されていった。

母殺しという大罪まで犯したネロは、だがそれでも自分の意の赴くまま、快楽の陶酔に生きつづけた。だがローマの元老院でさえ、この若い皇帝を弾劾もできず、阿諛追従(あゆついしょう:気に入られようとして、おもねりへつらう)をもってそれを認めた。

AD62年、彼は更に次の殺人を行なう。貞淑そのものだった昔の妻、オクタヴィアに無実の罪をきせ、ティレニア海の孤島パンダテリアに幽閉し、その四肢の血管をすべて切り開かせて無理やりに自殺させた。
64年、彼はローマの市民を悦ばすという口実でアグリッピナ浴場の周りに酒池肉林の大饗宴会を催した。そして自らも女装して男色相手だった奴隷のピタゴラスと結婚式を挙げたのである。』(遠藤周作著『キリストの誕生』より)

【生育暦】
私たち福祉関係者がそのサービス利用者を知るときに大切な要素として、「生育暦」があります。それは恐らく、カウンセラーにとってのクライアントの、弁護士にとっての依頼人の、警察にとっての犯罪者の…生育暦が謎を解き明かす「なぜ」になることが多いからです。

振り返って、ネロの生育暦は…。
一言で言うと、『異様』です。


恐らく生まれた当初~幼年期までは、大切にされたのでしょう。ただし、もし母より『(皇帝の地位からは遠い)価値の無い息子』と取られていたとしたら、十分な愛を受けずに育った可能性はありますし、逆に『(他の候補者を)追いつけ追い越せ』のスパルタ教育に晒された可能性もあります。
しかも、17歳という年齢で母の作為によって擁立され、能力も知識も無いままに権威の座に着かされた…。

ただ、最初はネロにも目を見張る功績があります。それは脇に控えた哲学者セネカと、親衛隊長ブルスの補佐を受け入れられていたから。農業復興のため大運河の開鑿に着手、青果市場の取引を免税したり、市民に利する税制改革を行ないました。市民からの評価もあったでしょう。

しかし、17歳という年は、自分の目で見、風評含め話を聞いて、自分の母が何をしているか知るには十分な年です。母が夫を殺害して取り上げた皇位であること、その母がもし自分を気に入らなければ、今度は自分が毒牙にかかる可能性があること…。自分が死んでも弟がおり、母が摂政のような立場で皇帝の権威を握りえること…。

恐怖したと思います。人間不信に陥ったと思います。これまでは弱く、無知であった自分。これからはこの立場を、権力を、自分で守っていかなければならない…。
そんな折、母に踊らされた弟ブリタニクスがもし、皇帝になる意思表示を(言葉であれ態度であれ)したとしたら。
ネロは自分の地位を守るため、何でもする。
「あなた(母)が教えてくれた」方法で、毒によって。

ブリタニクスの死後、母アグリッピナは再びネロの懐柔に入ります。その肉体をも用いて。
しかしその『愛』には、ネロを支配しよう、コントロールしようという作為に溢れており…。

そんなことは、分かるのです。人の思考や意見に内心びくびくしながら、政治の、皇位の暗闇を歩いてきた者ならば。

母の心の奥にあるものが『息子に対する愛』ではなく。
『息子を通じての自己実現』であるのは分かるのです。

人間不信に怯え、また純粋な愛に飢えていたネロは、母に利用されることを拒んだのでしょう。そして、母殺しへと…。

そこから先の彼の人生は、受けることのなかった愛を求めて、完全なる狂気の世界へと没入していきます。
有能な補佐官たちを遠ざけ、元老院の発言を無視するのみならず、脅迫し、追従させ…。

そんな中、64年に起きたローマの大火。それは実は、ネロがローマ市内に自分の宮殿を築く土地を得るため、火を放ったという説もあります。その噂話をかき消すために槍玉に挙げられたのが、当時隆盛し始めた「キリスト教徒」たちでした。

その迫害の中、既にローマに捕らえられていたパウロ、またキリスト教指導者の急先鋒であったペテロは殉教したのでしょう。聖書の中にその記録を見る事はありませんが…。

【ユダヤ反乱へと】
過剰な迫害と、指導者たちの捕縛/処刑を受けたキリスト教徒たち。

当時の反ローマ機運の高ぶりも受け、ユダヤ国家の抗争に巻き込まれた者たちも居たでしょう。
ユダヤ人グループの武力行使の結果、シリアよりの派兵を打ち砕かれ、手傷を負ったローマ帝国は3個大隊を向かわせ、AD70年エルサレム陥落、73年マサダ要塞陥落と、イスラエル国家滅亡への道を辿るのです。

もしくは、キリストの教えを時代を超えて伝えるため、時に身を隠し、時に逃れて、細く長く信仰を保っていったのかも知れません。確かに生き残った12使徒たちは、遠くインドやアフリカへ宣教に出ています。
他の信徒たちも、先駆けてパウロが、ペテロが、バルナバが、シラスが、ピリポが、アポロが…その他多くのディアスポラ(ユダヤ人 離散定住集団)たちが、種を蒔き続けていた周辺諸国に逃れ、そこで信仰を温め続けたのかも知れません。

【追記:ネロの最後】
AD68年、ガリア(現フランス)で反乱発生。またスペイン属州総督ガルバが皇帝を宣言。ネロ追放の火の手が上がり始めました。
追って、元老院からも公敵宣言を受け、古式通りの残酷な処刑がなされると聞いたネロは、自ら命を絶ちました。

それは丁度、ユダヤ人がローマ帝国に対して戦いを挑んでいた最中のこと。
『666』はその滅びの時を持ったのでした。
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