後藤 秀孝
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JAPAN
人のため でも 人による
2010-07-10 Sat 00:25
【ある少女】

ある所に、白人の少女がいました。仮にその名をエイミとしましょう。

英語圏で育ち、大人になってから日本に来ました。見た目も白人女性である彼女に、人々は英語で話しかけようとします。その方が分かり易いだろう、その方が受容されている感覚を持てるだろう、…そう期待して。


しかし、英語で気軽に声をかける日本人に、エイミは激しく拒絶反応を示します。日本語を勉強し、日常会話程度は問題なくできる彼女ですが、憤り、怒りに囚われて、日本語と英語を織り交ぜて叫ぶ彼女の姿は、時に人の目に攻撃的にすら映ります。言葉だけでなく、ボディランゲージも含めて、今にも殴りかかりそうな様子です…。


何が起きたのでしょう。善意で英語を用いた人間には、何がなんだか分かりません。何か気に触ることがあったのか。誰か他の人に向けた怒りを表現しようとしているのか。それとも、全く別件で怒り始めたのか。…

【何が起きたのか】

行きすがる人間が、エイミのため、良かれと思って英語で話しかけたことが、実はトラブルの引き金でした。


と言うのも、エイミは不幸な生い立ちで、子どもの頃から父親からは暴力を受け、母親からは蔑まれて来たのです。その時に、彼らが使ったのが英語でした。彼女を容赦なく殴るとき、彼女の人格を、そして出生を否定するとき、彼女を打ち棄てて去っていくとき、…彼らが使っていた言葉でした。

当時の彼女は、周囲に理解してくれる人も、守ってくれる人も、導いてくれる人もなく、辛い幼~青年期を過ごしてきました。そして、英語で語りかけられること=フラッシュバックのきっかけであり、トラウマ発現のトリガーとなったのです。そのことを、周囲で彼女を見守っているグループの人たちが教えてくれました。


【何がその人のためなのか】

上記のようなケースは、一度過ちを犯して、「立ち入り禁止」の境界を自分が越えてしまったことを認識しなければ、悪意もない、罪の意識もない、故に、事の真相の理解もない。そのまま、全く気付かずに素通りしてしまうことになるでしょう。「今日は運がなかった」「今日は彼女の腹の虫の居所が悪かったのだろう」と勝手な解釈で自分を納得させて、本当の理解には至らないわけです。

ですが、周囲の人の助けもあって、英語で語ることが彼女の心の傷に直に触れることになると知れば、その行動を改めることができます。「その人のため」を想像・期待してでなく、本当の意味で「その人の心に寄り添って」共存ができるようになるのでしょう。


人によっては、私たちが想像もつかないような「境界線」を持っている方たちがいます。その境界線を無意識に・であっても超えてしまうと、思わぬ反応が出てきてしまうものです。

何が本当に「その人のため」なのか。私たちは、子どもに対しても、高齢者に対しても、視覚障害者、聾唖者、認知症患者、精神疾患を持つ方、身体・知的障害者、その他様々な状態にある方たちに対しても、尊敬の念を持ってその境界線を確認しつつ歩むことだと思います。


そうすれば余計な軋轢は消えて、仮に精神に重荷を負っている方でも、その重荷を日常生活の中で「障害」とせず、他者と共存・共栄することができるはずです。


【後日譚】
エイミはその後、周囲の方たちが意識的に日本語で声がけをし、彼女を受け容れ、今までと同じように愛を持って接する事で、何も確執を抱かずにグループに参加し続けることができました。
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