後藤 秀孝
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神さまの仕事
2007-05-27 Sun 18:44
神さまの仕事をするために、私は人道支援の業界に入りました。戦災や自然災害で住む場所を失い、困っている人を助け、自立に最低限必要な物資を供与し、精神的なショックにある人々を励ますこと。

それはマタイ25:34~にあるように、「あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べるものを与え、わたしが乾いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、
わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしを訪ねてくれたからです。」というメッセージに、行ないで従おうと思った結果です。

しかし、それは一部正しくあり、また一部誤った解でもありました。

なぜなら、NGOの仕事は「限られた資源を効率よく配分し」「できる限り多くの人の自立再建を助ける」ことに主眼が置かれています。反面、神さまの仕事は「すでに救われている大多数よりも」「迷い出た一人を救うため」と言えないでしょうか。

<家を建てるものたちの捨てた石>
例をあげましょう。コロンボ郊外、麻薬中毒患者のリハビリ施設である「パワーハウス」に、19度目の収容という不名誉な記録を引っさげて、強者が再入所してきました。ジュードという名の、まだほんの27歳の若者です。入退院を繰り返し、時に脱走し、時にニールセン牧師を襲い、金品を奪おうとしたこと(未遂に終わる。「牧師なら反撃して来ないと思った」とのこと…)もあります。しばらくの入所生活の後、改心するのですが、外に出ると再び誘惑に負けて、麻薬の虜になってしまう。その繰り返しでした。

しかし妻が教えるPCの教室に、両足を鎖につながれたまま(逃走防止のため)、ジュードが参加してきた時のこと。PCを使うのが恐らく初めてにもかかわらず、フォトショップを使う彼の色彩感覚とデザインのセンスは、妻の関心を惹きました。

「きっと、神さまがあなたに与えてくれたギフトね。それを大切にして」という妻を、不思議そうな目で見返す青年。そんな彼は今、妻が与えた日記帳に毎日「神さまへの祈り」をつけています。
外部の人間から見れば、どうしようもない負け犬。救いようのない失敗作。実の家族すら見捨てて、縁を切った「身内の汚点。」

そんな彼にも、「神さまの与えてくれた役割り」がきっとある。私たちはそう信じています。遥か遠く迷い出て、「お前の人生もう終わってるよ」と社会があきらめ、立ち去る中。主イエスキリストは、彼のためだけに、その救いの手を差し伸べてくれたのです。

それは私にも、そしてあなたにも、同様に差し伸べられている「希望」です。そう、主は迷い出た一匹の羊のために、ご自分のいのちをすら、与えてくださいました。
それは、その代償によって贖われた私たち一人ひとりが、改心して主イエスの道に歩むためでした。

それが、「ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられる(IIペテロ3:9)」という神さまの、御心にかなった仕事のように思います。


<職員失格>
さらに例を挙げると、NGO職員として、恐らく私の欠点と見られていた「現地スタッフとの親密感」があります。NGO職員としてタブー視されていることの一つで、つまり「ローカル職員とあまり親しく付き合うと、愛着が湧いて判断が鈍ったり、厳しい処置が取りづらくなる」ということです。

確かに関係の中で甘えが出ないよう、公正な厳しさが必要な時もあります。しかし、私の中の大義は「ロボットとしてこき使えば、彼らの能力の50%、いや80%くらいまでは引き出せるかもしれない。しかし、現場でお互いに信頼できる戦友とならなければ、彼らが自ら進んで120%を出すことはありえない。」というものでした。だから、若いパキスタン人のスタッフと共に、JEN山岳部隊としてカシミールの山を踏破しました。同じ釜の飯を食い、雨で濡れた服や靴を薪ストーブで乾かし、水汲みに参加し、一緒に笑い、一緒に泣きました。

私は出会う人間一人ひとりの人生と、深く関わってしまうのです。日本人スタッフが管理責任者として全体を運営し、時に冷徹な判断を下さなければならないNGO業界では、それは欠点と取られても仕方ありません。

しかしそんなマイナスをも、神さまはプラス材料として、役立たせる方向性を持たせてくれたのです。
現場で日々汗をかいて、努力する人たちの想いが理解できるように。彼らの痛みが、人に言えない苦しみが、少しでも共有できるように…。
私は自分自身の弱さや愚かさも知っているので、社会的に貧しくても、見劣りがしても、努力している人の一員として、同じ目線で神さまのことばをシェアすることができる。「神さまの仕事」には、無駄な経験や能力など、一つもないのですから。

<「平和」ということも>
別の機会に、JENの月例BBL(Brown Bag Lunch。昼飯カジュアルミーティング)で、インターンの内山さんが「平和」について話をしたときのことも、今思うと「NGOの仕事」と「神さまの仕事」の違いを、はっきりと示していたように思います。

歴戦のNGOスタッフが定義する「平和」とはこういうことです。つまり、
「①戦闘行為が無いだけでなく、②衣食住の基本的権利が尊重され、③将来への希望が持てる状態。」
①は明快ですね。②に関しては、人が生きる上で必要なものが確保され、守られていること。そして③は、安定した職業につけ、貯蓄ができ、子どもが十分な教育を受けられること。

こうした意見が主流を占める中、私だけは「平和とは、他人を思いやる心の余裕がある状態。自分を他人の立場において、彼の目線から物事を考えることができる状態、ではないでしょうか…。」と言ったのを覚えています。その時は「何ともとぼけた回答だなぁ」と、周囲から思われたに違いありませんが、実はその回答が「NGOの仕事」と「神さまの仕事」の根本的な違いを指摘していたのだと、今になって気付かされたのです。

確かに最低限の身の安全と、衣食住は不可欠ですし、教育も大事です。しかしそれら全てを持っている日本人が、なぜ不幸なのか。なぜ心に平和がないのか…。

それは「平和」を外部要因に求める人道支援の定義と、自分の内部要因に求める神さまの定義との、純粋な違いです。どちらが正しいとか、良い悪いではなく、二つの違う物を、同じメガネで見ていたのです。

そして、それが心の問題である以上、一人ひとりに根気よく働きかける必要があるのです。NGOの業務のように、プロジェクトベースで6ヶ月~1年という風に、切れない仕事。神さまの仕事は私の一生をかけても、終わりえない事業だと思っています。

<これから>
その違いに気付かされた今、私の歩む方向性は決まりました。

まだ、事業計画の枝葉末節までは分かりません。アイディアの奔流に巻き込まれ、上から注ぎ込まれるインプットがあまりに膨大で、情報をどうまとめ、何から手をつけるか。どうしよう?というのが実感です。
とんでもない失敗をやらかして、世間的に「クリスチャンの恥さらし」としてけなされるだけかもしれません。しかし常に主のことばに耳を傾け、挑戦する覚悟はできました。

私のNGO職員としての勤務も、今年8~9月に終了します。責任を持って職務を遂行すると同時に、退職までに地力をつけ、日本での活動に向け準備を開始しています。
今度こそまっすぐに、「神さまの仕事」に進みます。
これからも皆さんの祈りを、どうぞよろしくお願いします。

いつも応援感謝しています。
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