2007-04-16 Mon 16:05
<Q6. 洗礼を受けて信者になったら、罪を犯さなくなるのでしょうか。> 「はい。私は洗礼を受けてから、何一つ罪(過ち)を犯していません。完璧に、きよいです。神さまに選ばれたエリートとして、自負を持って生きてます。誰からも非難されることなどありえませんから。」 そう言うようになったら、私はクリスチャンとして、人間としてお終いだと思います。葛藤と苦悩、劣等感などに溢れた周囲を見下し、自分をあたかも聖人のように演出するのは、神さまと自分に正直な人には、できない芸当でしょう? どれだけの年月をかけて、わが身を叩いて従わせても、心の中の敵に翻弄されない人など、残念ながらいません。だから、洗礼を受けていようといまいと、罪は犯します。 そして人は、どうやってもバレる状況でも、隠蔽(いんぺい)しようとがんばったり、誰か別の人に責任転嫁しようとします。往生際悪いです。あがいて、更に傷口を深め、人間関係を壊し、事態収拾に必要な貴重な時間を浪費します。 しかし、主イエスの生き方に触れ、その赦しと愛を学ぶと。自分の過ちを潔く、認められるようになるのではないでしょうか。そしてすぐに、失敗の瓦礫の中から、再利用できる資材を拾い集められるようになるのでしょう。 「ごめんなさい、それ俺でした。」と素直に謝って、「OOとXXをします。それで被害は最小限に抑えられるはずです。」と、即解決に動けるようになるのです。 そして、「他人から自分の失態について、どう思われるか、何を言われるか」という恐怖の代わりに、「神さまは全てをご存知だ。私の過ちも、そして悔い改めも。」という、深い心の平安を手に入れられるのです。 ですから、信仰に入った方でも罪は犯します。失敗も、過ちも、仲たがいもします。 しかし、その後の対応が、大きく変わってくるはずです。 あなたは「イエス!」と言えましたか…? 言えた方は押してくださいね♪↓ |
こんにちは^^スペーストミーです。
初めて、訪問しました。 w~~~そうですね! 罪を背負ったのが人間であることは間違いないと トミーは思います。 でも、正しいか正しくないかは、トミーはいつも思うんですが・・・ 結局、最終的には、自分の心の中の神様が決めるんじゃないでしょうか・ たとえば、戦争で人殺して、英雄になる人もいるし、殺人罪で裁きを受ける人もいる。 また、殺しの理由も不幸のための殺しなのか? たんなる愉快犯なのか? 色々と理由がついてまわるけど それって、最後は、じゃ、誰が判断するかといえば 自分じゃないですかね? 人それぞれの中に神がいて、捌きをくだす。 聖人ぶっても意味がないのは、 そこに理由があるのではないでしょうか。 そして最後は、それゆえに人の弱さを理解して、 許すことが出来る人間が 外の神、イエスキリスト様であると トミーは思います。 信者でもないのに勝手なこと書いてすいませんが^^ 普段感じていることと共感したものがあったので 長々と書かせていただきました。 ぜひ、トミーのブログにも来てください。 あ、ランクリ、ポチ!しておきます。 ごめんなさい、回答遅れました。
そうですね。自分の罪は、自分の中の神、良心、チクリと痛む心…。そうしたものが、最終的に善悪の判断をする。最終的に法が裁くものは法が裁き、自分の咎は自分で清算する。 すると、恥を知る人は常に悪いことをしているような気がするかもしれませんね…。周囲の反応が思わしくないと、何か自分に落ち度があるのでは、と自分を責めてしまいます。 また、戦争の英雄も、その後の生涯を後悔に苛まれる(宮元武蔵もその傾向があったようです。彼が後に仏門に入ったことからも)こともあるでしょう。愉快犯の殺人者も、再び悔い改めることがあれば、負いきれないほど重い十字架を、その背に負うことになります。 そんな自責の念からの開放をも、主は与えてくれているように思うのです。まさに、人間の過ちも弱さも、その葛藤も苦しみも、理解したうえで「わたしについてきなさい」と言うのが、主イエスですね…。そこから、新しい人生を始めなさい、と。 トミーさんの中に、神さまはいます。私たちのエゴや「自分かわいい」審判は通用しませんが、神さまは公平な裁きを下すかたです。私たちが正直に、謙虚に自分の罪を認めれば、それを受け止めて赦してくださるのもまた神です。 すみません、取りとめもなくなってしまいましたが。 またいつでも遊びに来てくださいね。トミーさんの率直な質問が、他の読者の方の疑問にも応えているのですから。 ごとう ひでたか 拝 |
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