後藤 秀孝
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JAPAN
聖餐
2007-03-06 Tue 21:17
教会に行くと、月に一度くらいの頻度で聖餐(Holy Communion)という行事に行き当たります。
これは主イエスが弟子たちと過越(すぎこし)の食事の席に着いた時(=最後の晩餐)、行なった愛と感謝の儀式を引き継ぐ形で、今日も執り行われているもの。

「…さて時間になって、イエスは食卓に着かれ、使徒たちもイエスといっしょに席に着いた。
イエスは言われた。『わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたといっしょに、この過越の食事をすることをどんなに望んでいたことか。<中略>』
それから、パンを取り、感謝をささげてから、咲いて、弟子たちに与えて言われた。『これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行ないなさい。』
食事の後、杯も同じようにして言われた。『この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です(ルカ22:15~20)。』」

これをウエハースやパンやクラッカーと、グレープジュースなどで代用して行なう訳ですが、私の中にはいつも疑問がありました。

「牧師は『自分が相応しいかどうか吟味して、このパンを食べ、杯を飲みなさい。もし相応しくないままで受け取れば、罪を犯すことになりますよ。』また『主イエスを救い主と認めるなら、聖なる食卓に着くことができるはずだ』と言う。考えてみると厳しい条件だけど、何だか知らないが、誰もが例外なく受けている。」

「聖餐を受けることが、ある意味『信徒の証し』みたいなところがある。逆に言うと、これができなければ、『あなたは私たちの仲間じゃない。』自分で汚れてます、受けるに値しないんです、と公言するようなものだから、そりゃ“きよい”周囲から見れば、黒い羊だわな。非常にバツが悪い」

「私には、正直分からない。自分が主の愛に相応しいかどうか。それは彼が決める事だし、実際に面と向かって会ってみなけりゃ分からん。」

「そんな疑問を感じながら、回りの雰囲気に流されて受けるのも、何か違う…。」


だから、聖餐は受けませんでした。ずっと無言で座っていました。妻が立って、隣で促しても、無視。

私には、神さまの前に正直でいる事の方が、人間の儀式に参加する事よりも大切に思われたんです。


でも最近になってようやく、聖餐の意味が理解できてきました。それは「私のために流された主イエスの血と、いのちの犠牲を忘れずに、感謝して毎日生きること」また「これが仮に私の最後の食事だとしたら、どれだけ美味しく、どれほど感謝をもって食べるだろうか」と、人生を日々、心新たに生切ること。

考えてみると、その精神は、武士道について書かれた「葉隠」の中にも見られるんですよ。「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」のアレです。このコピーを書くといつも通り誤解されそうですが、それはつまり「もし今日が最後の一日だとしたら、どう生切るか」という思考に、直結していると言えないでしょうか。実は日本人の誰もが、DNAの中に持っている共通観念――それをイエス・キリストが約2000年前に語っているんです。


だから、この聖餐の儀式って、月一とかでなくて全然いい。毎食やればいいんです。「またあなたの食卓に着くことができました。俺ってラッキー。生きてることに感謝で~す」「神さまありがと~」って、自分の気持ちを伝えればいいんです。それを「毎月恒例の~」みたいにしてしまうから、儀式めいて、形式ばかりが独り歩きてしまう。でも、本当に大切なのはその根底にある「こころ」のはず。

私たちの「こころ」が澄んで、晴れ渡っていれば、人間の執り行う儀式の意義や、無神経に振りかざされる「クリスチャン/ノンクリスチャン」の線引き、差別などに悩まされる必要もありません。だって主イエスが「みんなおいで!!」って言ってるんだから。

そう考えるに至って、スッキリしました。だから私は毎日、聖餐の祈りを捧げます。「今日生きてて良かった!クレイモア地雷とか、バス炎上爆発、LTTEとスリランカ軍のドンパチで死ななくて良かった!! ありがと神さま!!」


『あなたがたは、私たちの中で制約を受けているのではなく、自分の心で自分を窮屈にしているのです(IIコリント6:12)。』確かにそうでした、ポールさん。今は笑えます。

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この記事のコメント
#59
真理は私たちを自由にするんですよね!
そして、御霊も私たちを自由にしてくれるんですよね!
儀式でなくて、心ですよね!
2007-03-07 Wed 00:09 | URL | Lamb #ntjGH7yg[ 内容変更] | top↑
#60 全く同感なのですが・・・
私も、全ての食事が聖餐である、というのには同感します。

ただ、ごめんなさい、きっと毎日そういう凄惨な状況下で生きていらっしゃる方にとっては、「○○で死ななくて良かった」というのは、すごく切実な祈りなのであろうと思うので、それを否定するつもりは毛頭ないのですが、ちょっと「~ないで」という否定形で言うことに引っかかりました。

私も、かつてはそういう傾向があり、何の問題も感じていませんでした。しかし、私同様にそういう風に否定形で言う友人がいて、ある時から徐々に違和感を感じるようになりました。つまり、ごとうさんのケースで言えば、それは逆に、その日であれ過去の何時かの日であれ、そういう凄惨な状況で実際に亡くなった方の存在を暗に前提にしている感じがするのですよね。そうすると、あの神の庭に立って、胸を打ちながら遠くに佇んでいる徴税人を尻目に、「神様、私はあの徴税人のようでないことに感謝します」と言ったパリサイ人と同じような心情ではないか、という風に感じたのです。

そのことは友人にも伝えたら、彼女はそういう否定形での言葉を段々言わなくなって変化されましたし、私自身も、単純に自分が今受けている状況を肯定的な言葉で感謝し、さらに今日、何をすべきか、ということの方に集中して祈り求められるようになりました。

凄惨な状況がよくわかるだけに、そしてそういう状況を普通に日本や欧米諸国にいては気づくことができない人のために、こういう風にブログを通して伝えて下さるのは本当に感謝なのですが、ちょっと祈りの時の言葉としてという点にのみ、引っ掛かりを感じたので申し上げてみたくなりました。

これからも、現地でのお話など、ブログを通してバンバン伝えて頂けたら嬉しいです♪
2007-03-07 Wed 18:51 | URL | Grace #tQ725RIE[ 内容変更] | top↑
コメント感謝です、子羊さん。

日々之新たに、毎日を生きていきましょうね…。
「Everyday is a new day for a wise man」
ということばもあるとおり、主にあって生きてることに感謝です。

ごとう
2007-03-07 Wed 22:22 | URL | ごとう ひでたか #-[ 内容変更] | top↑
Graceさん、ブログの方しばらく休刊ということで、お忙しいのだろうと想像しておりました。拙ブログご訪問&コメント、本当にありがとうございます。

頂いた温かいメッセージ、ありがたく頂戴いたします。「心にあるものを話す」のが人間ですし、また多くの方に読んでいただく機会もある文書ですので、「分かりやすく、楽しく、明るく」を心がけています。その一文に気付かぬうちに、ネガティブ要素/言い回しが混ざるのは、避けねばならないことですので、ご指摘感謝です。

今後とも拙ブログを温かく見守ってくださいね。Graceさんのご健康、博論完成と、一日でも早いブログ再開をお祈りしています。

ごとう
2007-03-07 Wed 22:30 | URL | ごとう ひでたか #-[ 内容変更] | top↑
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