聖書の中でこんな話があります。主イエスと弟子たちがヨルダンへ出向いて、説教をしていた時のこと。キリストにさわってもらおうとして、おばかな子どもたちがワーッと殺到しました。それを見て、イエスの弟子たちが「ガキども~ッ!あっち行け」と止めようとしていたところ、主が口を開きました。
「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。<中略>子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません(マルコ10:14~15)。」
この「子どものように」とは、一体どういうことでしょうか。それを知るためにはまず、身近にいる子どものことを思い浮かべてみましょう。
彼/彼女は、おばかで、うるさいですか?わがままですか?駄々っ子ですか?よく笑いますか?泣きますか?
こうした表面的な「子どもらしさ」に加えて。その内面にある一番大切な要素を見てみましょう。
それは「親に対する絶大なる信頼」ということではないでしょうか。
子どもの信頼
幼子はよく、駆け寄ってきてそのままお母さんの胸に飛び込みます。布団の中のお父さんを起こそうと、全体重で乗っかってきます。無条件に「必ず受け止めて、愛してくれる」と信じているからです。
子どもが果たして「あなたには、いい子にしている私を、マクドナルドに連れて行く義務がある」「かわいい私を、一流の小学校に進学させなきゃ許さない」とか、「算数の成績が上位5位に入ったから、弟よりも愛してくれなきゃダメ」などと、求めるでしょうか。
彼らはただ、こころから「マック~」とか「お友だち~」とか「愛して~」と、慕い求めるだけです。どうしてか分からないけれど、それらが必ず与えられる、と信頼しきって。
神さまとのこうした絶対な信頼関係に、あなたが立ち返ってくれることを、天の父は望んでいます。
しかし、私たちの姿勢と言ったらどうでしょう?前述の「かわいくないガキ」と同じことを、気付かずにしている時って、ありませんか…?
「私こんなに素晴らしい働きしていますから。お返しに天国へ行かせてくれなきゃヤダ。」
「たくさんの貢ぎを納めていますから、なんとしても年収アップ!祝福してください。」
「伝道の仕事をして、多くの人に福音を伝えると誓います。だからこの世でも豊かにしてください。」
「クリスチャンとして25年、私にはあなたの声を聞き、奇跡を起こす権利があるはずだ。」
知識がつき、駆け引きを知り、交渉上手になると、神さまに対してもこんな「条件付アプローチ」を取りがちです。
しかし主が本当に望んでいるのは、前述の子どもたちのような、盲目な、絶対の、信頼関係なのです。
終わりに
彼らの純真さ、素直さに学んで、神さまにすがりましょう。見返りを求めたり、「わたしはOOしたから、その報酬として××…」というのでなく、「まず愛してくださった」神さまに感謝し、その手を取りましょう。
神さまはただ、親と子、神とあなたの間にある、愛と信頼関係の回復を求めているからです。
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