2014-08-29 Fri 23:30
弟子の一人、ピリポが無謀にも、イエスさまに
「父を見せてください。 そうすれば満足します(=信じます)」 (ヨハネ14:8) と言ってしまったように。 私たち、ひとたび信仰の話になると、 「神サマ、また神の奇跡であっても、 目に見えるなら私、信じますから…」 と言って憚らない。 でも、俺たちの“目に見える範囲”って、どのくらい限定されているんだ? 逆に言えば、実際にあっても見ることができないモノって、 俺たちの身の回りにどれくらいある?? ![]() <By the way, 政府は・東電は、責任など負いませんよ…?> 例えば、気圧 一つとっても、だ。 計器で測る事はできるが、現物 kPa は目に見えないのだ。 *高齢者施設ではよく、こんなせりふを聞く。 「今日は気圧が高い/低いから、患者さんの容態がどうこう…」 気圧自体も目に見えない。だが、確かに存在している。 生身の介護職員が、それほど鋭く知覚できているかどうかは別として…。 例えば、電子通貨。あなたの頭上/鼻先を掠めて、今も何兆円という額が世界中を飛び回っている。 例えば、電磁波。PCから、携帯から、そして私たちの身体からも、電磁波が照射されているけれど。 例えば、放射線。3.11直後の原発事故で、雨に乗り放射性物質が降り注いだのはご存知の通り。だが一体どれだけの人が、自身の被爆量を把握しているだろう。… そして何より、目に見えないモノのMVPは、 「私は今、ここにいる」と主張して止まない 「我」という存在である。 言い方/表現は様々。 「こころ」「人格」 「想い」「いのち」「魂」… 全て、「目には見えない。」 が、確かに俺のあなたの内にある。 生物学的な生命活動の兆候は機材で計れるとしても、 「“我を我”成らしめている“モノ”」は、 どんな科学的手法を駆使しても説明できぬ。 証明も評価もできぬ。 こころの電荷、 想いの温度、 いのちの価値、 魂の重さ、 そんなものは…。 ――――― (「悪霊」とかは信じてビビるくせに、) 眼前に、そして我らの内にあるモノには、 「見えないから信じない」と言ってきた私たち。 今こそ、浅慮な「先入観」「偏見」、 そして「直勘」とか「インスピレーション」とかいう 正確性を欠いた思い込みに頼るのではなく、 「神さま、 あなたは見えないし、 触れることもできないが、 本当に存在するのでしょうか。…」 「存在するとすれば、 今、私の置かれているところで、 あなたは私に 何を求められるのでしょうか。…」 と主なる神に尋ねる思いをもって、信仰に向き合って欲しい。 目に見えようと、目に見えまいと、 厳然たる真理はあなたの目の前にある。 大いなる神の愛は、 あなたが気付きさえすれば、 今も注がれているのだから。 スポンサーサイト
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