後藤 秀孝
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JAPAN
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【教会におけるカウンセリングについて】
2014-08-25 Mon 23:21
ナイチンゲールはその著書でこう言っている。

「おせっかいな励まし―――こうした励ましの習慣は病人に害を与える行為としては最悪のものであり、私はそれに強く反対する。(中略)

病人が直面している危険をわざと軽く言い立てたり、回復の可能性を大げさに表現したりして、病人に“元気をつけよう”とする、そのような行為は厳に慎んで頂きたい。」(中略)

「現実には、善意はあるが厄介極まるこの種の友人たちに励まされて、患者が少しでも“元気付けられる”ことなど皆無 なのである。

それどころか反対に、病人は倦み疲れて気が滅入ってしまい、(中略)結局、ひたすら自分の病気のことばかりを思い煩うことになってしまう。

一般的に言って、本当に病状の悪い病人は、自分のことをあまり話そうとはしないものである。」(中略)

Night-in-Gale
     <あの、ナイチンゲールですよ?鬼婦長 Night-in-Gale>








「この世で病人に浴びせかけられる忠告ほど、虚ろで空しいものは他にない。
それに応えて病人が何を言っても無駄なのである。

というのは、これら忠告者たちの望むところは、病人の状態について本当のところを知りたいと言うのではなくて、病人が言うことを何でも自分の理屈の都合の良いように捻じ曲げること、つまり、ともかくも 自分の考えを押し付けたい と言うことなのである。」

「患者は、友人たちに取り囲まれていながら、孤独を噛み締めている。(中略)彼は、自分に対する愚にもつかない励ましや勇気付けの言葉の洪水から解放されて、たった一人でもいいから、何でも自分の思っていることを率直に話せる相手がいてくれたら、どんなにありがたいことだろう と思っているのである。」(中略)


「ある病人が、自分が看護婦から受けた看護と、
犬から受けた看護とについて語ったことがあるが、
彼は犬による看護の方がずっと良かったと言った。
“何よりも犬は喋りませんからね。”」
(フロレンス・ナイチンゲール、現代社、1968年。
「看護覚え書――看護であること・看護でないこと――」)


上記からお察し頂けただろうか。
これまで我らが犯してきた「善意の押し付け」を、認められただろうか…。

どれほど多くの牧師/神父、教会リーダーや長老たち、教職と呼ばれる方たちが、(ここが最悪な所だが)<神の御名を通して>「おせっかいな励まし」をしてしまっているか。

そんな時に、
私たちが一番に心掛けなければいけないことは
「ただ真摯に聴く」ことだけ だと言うのに…。

―――――

後藤が話す/面接をする/営業する時に、十全の配慮をする以下の3項目がある。

①相手の表情、姿勢、返答、声音…に注意を払い、深く洞察すること

長老が相手を完全に置いてけぼりにして、
自分の信仰、証、また「おせっかいな忠告」をしている間に、

相手の姿勢は完全に後ろにのけ反り、
返事は一本調子の「ええ」「はい」「そう」ばかり、
目線は周囲を忙しく走り、誰か知り合いがいないか探している…。
「あ、お久しぶりです!」と叫んで、逃げ出すことができるようにと。…

そんな状況で「説教」することなど、滑稽 以外の何物でもない。

だから持てる感受性の全てを動員して、
相手の発している Non Verbal Communication に最大の注意と関心を払い、
話を聞くのみならず、相手の心を聴いて欲しいのだ。

(*そして、更に重要なことだが…。
あなたが相手を観察するのと同じくらい、
いやそれ以上に、相手はあなたを観察している。

「この人は聞く耳を持ってくれるだろうか」
「この人にはどのくらい喋っていいのか」
「私の考えを受け入れてくれるだろうか」
「変な奴だと思われないだろうか…」


相手もまた、あなたを推し量ろうとしながら話している ことを忘れてはいけない。)


②聴くことで、まずは相手の重荷を担おう

教会に来られる新来者、
控えめで礼儀正しく、
ともすれば“誰にも気付かれませんように”とこっそり末席に座っているような方たちは、
そもそもなぜ、教会の門を叩いたのだろうか。

日本人にとって「教会に行く」というのは余程の大事である。
知り合いに誘われた以外で、ふらっと教会に来ることなど1,000人中 2.5人くらいだろう。

単なる好奇心なら良いんだ。「教会ってどんなとこ?ふ~ん」位なら別にいい。

だが、何か悩みを持って・その答えの欠片を求めて教会を訪ねた人だったとしたら、
「教会に来る」 = どれほど切迫した状況だろうか?

そんな新来者に対して、滑稽説教をぶちかましてしまえば「二度と来ません」。
というか、全世界の教会に「絶対に二度と行きません。決めました」てなるでしょ普通。


だからこそ、
「本当に病状の悪い病人は、
自分のことをあまり話そうとはしないものである」

という言葉は、対人能力を磨く願望を抱く者ならば“暗記する”価値がある。

言い換えてみよう。
「本当に大きな問題を抱えた方は、
自分のことをあまり話そうとはしないものだ。」


だからこそ、主がして下さっているように、
「何でも自分の思っていることを率直に話せる相手」
として、自分を差し出すべき
なのだ。

(*想像してみよう。
赤い水の入ったグラスに、真水を注ぎ込んでみる。

多少は色が薄くなるだろうか。だが、赤い水は依然として赤い水。
余程多量の水で押し流せば別だけれど、完全にその赤要素が消えることは無い。

上記“グラス”とは勿論、相手の心であり、
“赤い水”とは心を埋める悩みや問題である。

“真水”である我々の信仰の証を幾ら注いでも、赤さ加減は減るかも知れないが、消えることは無い。

だから一旦、グラスを傾けて赤い水を吐き出す必要がある。それから真水を注げば浄化は早いでしょう。)

(*それでも水を注ぎまくってしまいたい。そんな頑固者には、想像してみようII。
今度のグラスに入っているものは、

タール
半生コンクリート

汚泥
ナトリウム

水を注いでも無効、または後悔しそうなモノばかりである。
でも「本当に大きな問題」というのは、恐らくこうした危険物/汚染物に匹敵するものだろう。

やはり「まずは容器を空にしてやることから」が基本なのだ。)


③相手の話を理解するよう努め、
相手の困難な状況に自分を置き換えて考えること。


そして自分の「意見」を押し付けるのでなく、
相手の話した「事実」に対する相手の「意向」を共に深耕すること。


およそ全ての相談事に関して、
相手は既に考え、様々な可能性を熟考し、答えを持っているものだ。

だが、その答えが他人からどう評価されるか、
指示されるのか反対されるのかを確認したいだけなのだ。


だからこそ、「おせっかいな忠告」や「滑稽な説教」など不要。

代わりに、我らクリスチャンにできること。
それは上記のように、
感受性の全てを動員して相手の心情を捉え、
偏見や先入観なしに聴き、
そして自分事として咀嚼しつつ、
(いい加減な解など提示せずに)相手の意志をより明確化させる手助けをすること…。

そして、「主の御心ならば成して下さい」と、共に恵みと導きを祈ることだ。

―――――

さて、
「いやあ、私は対人関係が苦手で…」
「有資格者がいるでしょう?」
「教会の中心メンバーが行なえばいい」などと言っている諸君。

我らクリスチャンは誰も、いつ・どこで・誰から頼りにされるか分からないのだ。

クリスチャンなら自分が今すぐにでも、そのような立場に置かれる可能性に気付き、準備を始めなければならない。覚悟しなければならない。

何故なら、主はその豪腕で我らを捉え、
弱く戸惑う私たち一人ひとりを通して、
神の御業を地上に成し遂げられるからだ。

その豪腕から、
あなたは逃れられるとでも思っているのか?
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