真面目な求道者の方が居た。
「熱心に信仰しないとダメなんでしょ。
聖書も何度も読んで、一日何時間も祈って、人々に伝えて…。」
彼女自身は「…せねばならぬ。」の信仰に疲れてしまい、
「私にはできないわ」と言う。
(物見の倒産。
あなたたちはこう言う方を増やしていないか?
神の愛ではなく、自分たちの行ない、ノルマ、
せ Never ならぬの狭義を押し付けていないか…?)
そんな彼女に、後藤は伝える。
「あなた自身の“救われた喜び”のほうが、“一日何回○○する”という義務よりも、
遥かに大事なんじゃないか」
本当に、
「私イエスさまにゾッコン惚れてます
」という愛熱(Passion)の方が、「信じて、救われよ」
「天国に行きたいかー!!」
「死後さばきにあう」
などの“説教”よりも遥かに強力だ。
「イエスさんったらね、こんなに優しいのよ…」
「ここまで気の利く人は人間にゃいないわ」
「私のこと、本当に大事にしてくれるの」そんな風に言われたら、誰でも
「んん??」って思う。
最初は「この人、頭おかしい?」というヒキ反応かも知れない。
でも「…そんなに凄いの???」という疑問符は残るだろう。
そして主は、
かなりねちっこい。あらゆる機会を捉えて、
「父の与えたすべての者を、
ひとりも失うことなく救う」ために、
私たちに<神の道への帰還>を促して下さる。だから、冒頭のような
「彼氏・彼女自慢」でいいのだ。後藤はそう思う。
そこには頭学問も 嘘も 建前も 教理教派も ない。
ただあなたの主観、あなたの想い、
あなたの慕情、あなたの感じた主の愛が、
活き活きと語られている。それでいいのだと思う。
「いや~神さまマジ天才なんで…」 と、
その天才振りを自分の原体験の中から語ればよい。何故なら。
初代教会のメンバーたちができたのは、
それだけだった。 でしょ?
でも、それらの言葉がどれほど人々を力づけ、
主に安らわせ、神に近づけたことか。…我ら、不完全なもの。不備・不足・不十分。
でも「完全に満ち足りるまで待って、」
なんて言ったら人生何ループあっても足りないでしょ?信号が全部青になってからでないと、出発しない。
なら一生出発できっこない。だから、自分だけに与えられた恵みを数えてみて。
思い巡らせて、主がどれほどあなたのことを愛して下さったのか…。
その「愛され自慢」を一丁、ぶちかましてください。
惚気(ノロケ)まくってください。「…またノロケが始まった」
位の勢いでいいです。そうやって蒔かれた種から、主は見事な花や実を収穫されますから。…―――――
<参考章節>
父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。
そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。
わたしが天から下って来たのは、
自分のこころを行うためではなく、
わたしを遣わした方のみこころを行うためです。
わたしを遣わした方のみこころは、
わたしに与えてくださったすべての者を、
わたしがひとりも失うことなく、
ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。
(ヨハネ6:37~39)
「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」のです。
しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。
聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。
宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。
遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。
次のように書かれているとおりです。
「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」
(ローマ10:13~15)
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