後藤 秀孝
http://afg2.blog74.fc2.com/
JAPAN
スポンサーサイト
-------- -- --:--
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

別窓 | スポンサー広告 | top↑
【ベテスダにて】
2014-06-11 Wed 11:45
ベテスダの老人。

38年間、身体の障害と病に冒され、癒しの奇跡に与ろうと “天使の下る” ベテスダの池のそばに臥せっている老人がいた。

そこにイエスさまが通りすがり、
『よくなりたいか。』 と聞かれた。

病人は答えた。
「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。
行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」

イエスは彼に言われた。
『起きて、床を取り上げて歩きなさい。』

すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。
ところが、その日は安息日であった。


そこでユダヤ人たちは、そのいやされた人に言った。
「きょうは安息日だ。床を取り上げてはいけない。」

しかし、その人は彼らに答えた。
「私を直してくださった方が、『床を取り上げて歩け』と言われたのです。」

彼らは尋ねた。
「『取り上げて歩け』と言った人はだれだ。」

(中略)

その後、イエスは宮の中で彼を見つけて言われた。

『見なさい。あなたはよくなった。
もう罪を犯してはなりません。
そうでないともっと悪い事があなたの身に起こるから。』

その人は行って、ユダヤ人たちに、
自分を直してくれた方はイエスだと告げた。

このためユダヤ人たちは、イエスを迫害した。
(ヨハネ5:1~16)

―――――

上記章節より注目して欲しいのは、
ベテスダの老人の思考習慣、苦みである。

ベテスダの老人






おかしいと思われないだろうか。

癒しを求めて38年間も回廊に座っていた老人が、いざ癒された時に

「癒しを有難うございます!」
「主よ感謝します!!」


などとは一言も言わず。

逆にユダヤ人たちに詰問された際、主の癒しには全く触れずに

「ユダヤのしきたりを破ったのは私のせいではない。
あの男がそうしろと言ったからやったんだ」

と責任回避をしたことに。…


これまでずっと求めてきた(筈の)癒しを受けたにもかかわらず、感謝できない。
ベテスダの老人は、過去の「被害者人生」によって、その考え方を毒されてしまったようだ。

確かに、そこには一定の「混乱」があったことは思量する。

これまでの病者としての生き方、他者から恵んで貰う人生が、
「歩ける」という事実によって激変するからだ。


歩ければ、仕事もしなければならないだろう。
「だが今更何をしろというのか。
俺は物乞いの生き方しか知らないというのに…。」


様々な思いが巡り、この老人の本質は実は
「変わりたくはなかった」
「癒されたいと思いながらも、変化を望みはしなかった」

というところだろうか。


―――――

大分前の話である。
ソビエト連邦が崩壊し、民主主義的・資本主義的な政治・経済・市民生活へと切り替わった直後に、中高年の住民たちは口を揃えて

「あの食糧配給に並んでいた時が懐かしい」
「何も悩まずに、ただ指示されたことだけしていれば良かったのだから」
「俺は政府の仕事から離れるのは嫌だ(その方は鉱夫だった。労働環境など度外視の職場だ)…」

そんなことを言ったそうだ。

良くなりたい。でも、変化は望まない。
ベテスダの老人の訴えに少し、被って思えた。

―――――

また、老人の責任転嫁癖にも、彼の積み上げてきた思考の片鱗が見える。

「私は弱いんだから、私に責任はない」
「私は一生懸命癒されようとしてきた」
「でも、誰も助けてくれなかった」
「周囲の人間が悪いんだ」…

確かに当時、ユダヤ人指導者から目を付けられたら「生活に関わる。」それも事実。

でも、癒された直後の混乱期ならまだしも、

少し時を経て癒しを実感して、
歩いて知り合いたちに挨拶に行ったり、
風呂に入ったり飯を食ったり着替えたり…した後に、


わざわざ出て行って、ユダヤ人たちに

「男の名前はイエスと言います」
「あいつが俺に命令したんだ」

と密告した。

主に対して感謝もせず。…

―――――

ベテスダの老人。
こうした被害者意識に囚われている人は、たとえ助けても、

「してくれて当然」
「アンタ助けて当たり前」


と増長させるだけじゃないですか。


「私は被害者だ」という観念を持っている人には、

どれだけ時間や友愛やお金を投資しても無駄じゃないですか?神さま。

と主に聞いたことがある。


しばらくの沈黙の後、主が答えてくれた。

『だってわたし、
お前に投資してんじゃん?』

\(^o^)/

―――――

<比較章節>

●ベテスダの老人

その後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた。

さて、エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があって、五つの回廊がついていた。

その中に大ぜいの病人、盲人、足のなえた者、やせ衰えた者たちが伏せっていた。

そこに、三十八年もの間、病気にかかっている人がいた。

イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。
『よくなりたいか。』

病人は答えた。
「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。
行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」


イエスは彼に言われた。
『起きて、床を取り上げて歩きなさい。』

すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。
ところが、その日は安息日であった。


そこでユダヤ人たちは、そのいやされた人に言った。
「きょうは安息日だ。床を取り上げてはいけない。」

しかし、その人は彼らに答えた。
「私を直してくださった方が、『床を取り上げて歩け』と言われたのです。」

彼らは尋ねた。
「『取り上げて歩け』と言った人はだれだ。」

しかし、いやされた人は、それがだれであるか知らなかった。
人が大ぜいそこにいる間に、イエスは立ち去られたからである。


その後、イエスは宮の中で彼を見つけて言われた。

『見なさい。あなたはよくなった。
もう罪を犯してはなりません。
そうでないともっと悪い事があなたの身に起こるから。』

その人は行って、ユダヤ人たちに、
自分を直してくれた方はイエスだと告げた。

このためユダヤ人たちは、イエスを迫害した。

イエスが安息日にこのようなことをしておられたからである。(ヨハネ5:1~16)

―――――

●盲目の男性

またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。

弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。
「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。
この人ですか。その両親ですか。」

イエスは答えられた。
『この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。
神のわざがこの人に現れるためです。

わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行わなければなりません。
だれも働くことのできない夜が来ます。

わたしが世にいる間、わたしは世の光です。』

イエスは、こう言ってから、地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。
そしてその泥を盲人の目に塗って言われた。

『行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。』
そこで、彼は行って、洗った。
すると、見えるようになって、帰って行った。

近所の人たちや、前に彼が物ごいをしていたのを見ていた人たちが言った。
「これはすわって物ごいをしていた人ではないか。」

ほかの人は、「これはその人だ」と言い、
またほかの人は、「そうではない。ただその人に似ているだけだ」と言った。
当人は「私がその人です」と言った。

そこで、彼らは言った。
「それでは、あなたの目はどのようにしてあいたのですか。」

彼は答えた。
「イエスという方が、泥を作って、私の目に塗り、『シロアムの池に行って洗いなさい』と私に言われました。それで、行って洗うと、見えるようになりました。」

また彼らは彼に言った。
「その人はどこにいるのですか。」

彼は
「私は知りません」と言った。

彼らは、前に盲目であったその人を、パリサイ人たちのところに連れて行った。
ところで、イエスが泥を作って彼の目をあけられたのは、安息日であった。

こういうわけでもう一度、パリサイ人も彼に、どのようにして見えるようになったかを尋ねた。

彼は言った。
「あの方が私の目に泥を塗ってくださって、私が洗いました。私はいま見えるのです。」

すると、パリサイ人の中のある人々が、
「その人は神から出たのではない。安息日を守らないからだ」と言った。
しかし、ほかの者は言った。
「罪人である者に、どうしてこのようなしるしを行うことができよう。」

そして、彼らの間に、分裂が起こった。

そこで彼らはもう一度、盲人に言った。
「あの人が目をあけてくれたことで、あの人を何だと思っているのか。」
彼は言った。
「あの方は預言者です。」

しかしユダヤ人たちは、目が見えるようになったこの人について、彼が盲目であったが見えるようになったこの人について、彼が盲目であったが見えるようになったということを信ぜず、ついにその両親を呼び出して、尋ねて言った。

「この人はあなたがたの息子で、生まれつき盲目だったとあなたがたが言っている人ですか。
それでは、どうしていま見えるのですか。」

そこで両親は答えた。
「私たちは、これが私たちの息子で、生まれつき盲目だったことを知っています。

しかし、どのようにしていま見えるのかは知りません。
また、だれがあれの目をあけたのか知りません。

あれに聞いてください。あれはもうおとなです。
自分のことは自分で話すでしょう。」

彼の両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れたからであった。
すでにユダヤ人たちは、イエスをキリストであると告白する者があれば、その者を会堂から追放すると決めていたからである。

そのために彼の両親は、
「あれはもうおとなです。あれに聞いてください」と言ったのである。

そこで彼らは、盲目であった人をもう一度呼び出して言った。
「神に栄光を帰しなさい。私たちはあの人が罪人であることを知っているのだ。」

彼は答えた。
「あの方が罪人かどうか、私は知りません。
ただ一つのことだけ知っています。
私は盲目であったのに、今は見えるということです。」


そこで彼らは言った。
「あの人はおまえに何をしたのか。どのようにしてその目をあけたのか。」

彼は答えた。
「もうお話ししたのですが、あなたがたは聞いてくれませんでした。なぜもう一度聞こうとするのです。
あなたがたも、あの方の弟子になりたいのですか。」

彼らは彼をののしって言った。
「おまえもあの者の弟子だ。しかし私たちはモーセの弟子だ。

私たちは、神がモーセにお話しになったことは知っている。
しかし、あの者については、どこから来たのか知らないのだ。」

彼は答えて言った。
「これは、驚きました。あなたがたは、あの方がどこから来られたのか、ご存じないと言う。
しかし、あの方は私の目をおあけになったのです。

神は、罪人の言うことはお聞きになりません。
しかし、だれでも神を敬い、そのみこころを行うなら、神はその人の言うことを聞いてくださると、私たちは知っています。

盲目に生まれついた者の目をあけた者があるなどとは、昔から聞いたこともありません。

もしあの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできないはずです。」


彼らは答えて言った。
「おまえは全く罪の中に生まれていながら、私たちを教えるのか。」
そして、彼を外に追い出した。


イエスは、彼らが彼を追放したことを聞き、彼を見つけ出して言われた。
『あなたは人の子を信じますか。』

その人は答えた。
「主よ。その方はどなたでしょうか。私がその方を信じることができますように。」

イエスは彼に言われた。
「あなたはその方を見たのです。あなたと話しているのがそれです。」

彼は言った。
「主よ。私は信じます。」

そして彼はイエスを拝した。

―――――

By the way,
老人を癒したのはベテスダの池ではない。
通りすがられたイエスさまだ。

イエスさまを拝そう。
スポンサーサイト
別窓 | Christianityってなんですか | コメント:0 | トラックバック:0 | top↑
<<【偽りの○○】 | キリストの愛を 超多忙なあなたに | 【ピラミッド】>>
この記事のコメント
コメントの投稿
 

管理者だけに閲覧
 

この記事のトラックバック
| キリストの愛を 超多忙なあなたに |
copyright © 2006 キリストの愛を 超多忙なあなたに all rights reserved. powered by FC2ブログ. template by [ALT DESIGN].
/
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。