神は人に、
①声を、
②言葉を、そして
③歌を、
与え給うた。
生物本来の生存競争、食うか食われるか、
の野性生活では全く不要、生産的でない“歌”を、
我らに与えてくれた。
それはやはり、我らが喜んだとき、悲しみのそこにあるとき。
懊悩、他人に理解されない思い、孤独を抱えきれないとき。
そして自分以上の、大いなる意思/ご計画に感謝するとき。
神はまことに、
我ら人間が悦んで主に捧げる讃美さえをも、
授けてくださったのだ。
―――――
声楽に詳しい友人がいる。
彼に言わせると、讃美も含め歌うという行為は「全身くまなく運動」であり、
かつ「締めるとこ締めて、緩めるとこ完全リラックス状態」で身体を「楽器化」する行為だ。
話の中でも、後藤がかなり面白く感じたのは、
①「全身の筋肉を個別に意識しながら締め、緩める」動作と、
②彼が「頭声」と呼ぶ発声をする際の顔の作りだ。
②友人の示した顔の作り方から察するに「副鼻腔を意識的に開いて歌っている」ことが分かった。
あなたもやってみよう。鼻の穴を膨らます。そして鼻呼吸で空気を回してみる。
鼓膜に空気が流れて内圧の高まりを感じられるのと同時に(スキューバダイビングの際役に立つ)、
目の下の頬の部分、鼻を中心とした幅6~7cmくらいの範囲で、皮下に空気が流れ「涼やかに」感じられるだろうか。そこが副鼻腔1.である。
(副鼻腔2.は眉間~眉根の辺りと言われる。だが後藤がどう意識しても、あまり存在を感じられないすまん。…)
つまりその予備振動機関も解放して発生すると、顔全体が楽器化。と言うことだ。
*声楽家の方たち、素人意見ですが何となくあってますか?
立ち方は剛柔流の三戦に近く、
頭を高く、姿勢はまっすぐにし、
鼻の穴を開いて歌うべし。だ。
―――――
次に、人の言葉についてであるが。
ヨハネの福音書にある、
「はじめにことばがあった」
「ことばは神と共にあった」
「ことばは神であった」
この件から、さらに深耕させられたこと。
―――――
人の言葉とは、全く不思議な物である。
心理学者は言う。
「言語化できれば、その感情はその人のものである」
成功哲学の権威は言う。
「言語化し、それを毎日反芻していれば、どんな目標も叶う」
言葉のこうした働きに、私たち気付いているだろうか。
自分の感情のうねりも、
自己達成予言も、
私たちのセルフイメージも、
全て私たちが内包する「言葉」に端を発していることを。…
―――――
だから主は、ヨハネを通じて上記の章節を語らせたのか。
これら三節、意図読みすれば、
「はじめにことば(意思)がある」
「そのことば(計画、動機)を、神と共にあらせよ」
そうすれば
「ことば(活動、人生)は神のご意思と一体になる」
と言うことだろうか。
あなたの触れる人々の中に、
あなたの活動、人生を通じて、
神は住まわれる。
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