後藤の同僚に、求道者の方がいらっしゃいます。
その方は聖書の内容に詳しく、ただ伝え聞いただけでなくご自身でしっかり調べ、学ばれたのだなと感じました。
きっかけは、物見の党さん。開拓感謝。
ただしこの方はその物見党の伝道者の方の影響か、または日本人の特質なのか:
①正解を求める ②救いは限定されている ③私は罪深すぎて救われないだろう という性向、想いが根にあるように見受けられました。
今日は、この方に対する拙い伝道の中で、
こうした問いを答え解していく内に、
後藤自身が示された主のことばを共有したく思います。
①正解を求める(=それ以外は誤りである) 正解はある。 神の御心、神の意志、神の Vision は確かにあって、
聖書・又関連した神学書の作者たちは大変苦労してそれを表現しようとしてきました。
しかし学ぶほどに思わされるのは、
神の正解は人間の知覚・認識能力では 到底推し量れないものだ ということでした。
しかもその示され方が―――神はニクい演出家です―――人それぞれに違うのです。
ロジック・効率人間には、論理的に。
音楽や芸術を愛する人間には、讃美や建築物、神曲、エル・グレコらの作品を通して。
科学者には宇宙の真理や原子の不思議、
医師には人体の奇跡を問いかけることで。
男には筋肉と強さ求める本能の中、
女には生命を育む難しさの中…。
子どもには子どもの、
親には親の…。
若人には成長と人間関係の喜びの中で、
老人には老いと衰弱の時の中で…。
その時その時に最適な示し方で、 神の高い高い意図を明かしてくれるものですから、 受け取る側の印象も違っていて当たり前なのです。 それらの違い、神が与えてくれた一人ひとり違う処方箋の内容を比較し、その差を論って:
私の言っていることは正しい、 あなたの言うことは間違っている というのは、人間の悲しく残念な思い違いです。
キリストの道をこれだけ分派した「宗教」にしてしまったのは、
実は講壇で偉そうに持論を展開する指導者たちの愚かさ。
お互い譲れないエゴに囚われた経営者たちの傲慢。それだけです。
神は一つ、 神の正解もあります。 でも私たちのキャパではそれが理解しようがない。 有限の存在、自己中心に囚われている“たかが人間” の私たちには…。 ただし、そんな私たちにも希望があります。
主ご自身が、白い御座でその種明かしをして下さるからです。
②救いは限定されている(限定144,000人!) 確かに、ヨハネの黙示録の中にこの記述はあります。
「また私は見た。もうひとりの御使いが、生ける神の印を持って、日の出るほうから上って来た。彼は、地をも海をもそこなう権威を与えられた四人の御使いたちに、大声で叫んで言った。
「私たちが神のしもべたちの額に印を押してしまうまで、地にも海にも木にも害を与えてはいけない。」
それから私が、印を押された人々の数を聞くと、イスラエルの子孫のあらゆる部族の者が印を押されていて、十四万四千人であった。」(黙示7:2~4)
聖書箇所をつまみ食いして自分の資金調達の都合の良いようにアレンジすれば、この章節は恐ろしい意味を持ちます。
要するに、世紀末論をぶち上げ信徒たちに発破をかけようとする残念な教会
(否、教会ではない。心霊商法です) は、
「救いは限定されているから、天国へのチケットを得るために頑張って布教しなさい!」
「幾ら献金しなさい!」
「この壷は120万円のところ、今なら!98万円です」
「はかをきれいに」
「献金できない人は、何人集めてきなさい!」
「今度の選挙では、何人声掛けしなさい。○○候補に投票してね!って言うのよ」等々…。
(*お願いですが、こんな拝金主義、世俗・政治的主張をする群れは今すぐ出て下さい。偽者ですから。)
でも、考えてみて下さい。
同じ使徒ヨハネが、別の章節で繰り返し語りかけていることは、
「その後、私は見た。見よ。
あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群集 が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立っていた。
彼らは、大声で叫んで言った。
「救いは、御座にある私たちの神にあり、 小羊にある。」 」(黙示7:9~10)
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは
御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、 永遠のいのちを持つため である。」(ヨハネ3:16)
「すべての人を照らすそのまことの光 が世に来ようとしていた。」(ヨハネ1:9)
すべての人。 あらゆる国民の内から、 一人も欠けることなく…。 主の救いは与えられているのです。 救いは主イエス・キリストの御名を信じ、
その御声に従う者たちに約束されている、ということです。
だからこそ、ご自分が納得のいくまで、
主の約束について調べ、求めて欲しいと願うのです。
③私は罪深すぎて救われないだろう 後藤が伝道している方の口癖のようですが、
「でも私はねぇ、救われないと思うのよね…」と謙虚な、否・自己卑下した言い方をされます。
でもそれは、
自分の理解の範囲で神を定義しようとするから …じゃないかねぇ?と後藤の霊は言います。
神さまなめんな。 と言うことです。
そうです。
神さまがその気になれば、
どんな罪深い者をも、ホイホイ救っちゃいます。
あなたもお気づきでしょうか。
既に何度も何度も、手を差し伸べられていることに…。
それを「しない」と拒んでいるのは、
ひとえに私たちの頑なさ、偏狭さが表に立ってしまうからです。
最後に一曲、
「He will carry you」を皆さまとご唱和しながら、
お別れしたいと思います。
If He carried the weight of the world upon His shoulder,
I know my brother that He will carry you,
If He carried the weight of the world upon His shoulder,
I know my sister that He will carry you.
He will carry you, He will carry you... ―――――
『…この小さい者たちのひとりが滅びることは、
天にいますあなたがたの父のみこころではありません。』(マタイ18:12~14)
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