後藤 秀孝
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JAPAN
【死ぬことと見つけたり ctnd】
2013-12-19 Thu 22:18
「武士道といふは
 死ぬことと見つけたり」


とは、武士道の根幹を描こうとした「葉隠」の有名な言葉だ。
新渡戸稲造がその言葉を継いで、「武士道は、宗教を持たぬ日本人の倫理道徳、美学の根源」(筆者意訳)と語ったように、武士道は日本人の心の拠りどころであり、日本人を日本人足らしめる物である。
(「葉隠」1716年、鍋島藩出版。口述:山本常朝、筆記:田代陳基)

これが、従来型の<欧米キリスト教>が日本の地に浸透しない理由だろうか。
<没宗教>日本人の中にあって武士道は、
「哲学」や「信仰」の占める地位を、どっしりと確保している。

しかし、【武士道 illustrated 】の「葉隠」を読み込んでいくほどに、
<キリストが伝えようとした人間本質やこの世の真理>
を、鍋島藩的に解釈した書なのかが分かる。

その気付きについて今日は皆さまと共有したく。



「武士道といふは、死ぬことと見つけたり。」
のくだりは、こう続いている。

「二つ二つの場にて、早く死ぬ方に片付くばかりなり。
別に仔細なし。胸すわって進むなり。」


<二つ二つの場>とは<生きるか死ぬかの場>であり、我らが生死何れかを取らねばならない状況に臨む時のこと。

こうした場合に武士道では、
「生き恥を晒すことなく死ぬ方を選ぶべし」と「葉隠」は語る。

二二場に置かれて即・死地と果断な行動が取れるように、「葉隠」では<一日一死>を心掛けるように説いている。

「日々新たに死ぬことと見つけるために、
朝に身心を鎮め、

弓、鉄砲、槍、刀で、撃たれ、突かれ、切り裂かれ、

あるいは大波に身を浚われ、
大火の中に飛び込み、

雷電に打たれ、
大地震にあい、瓦礫の下に潰され、

高い崖から飛び降り、
病死、頓死と死に様を考え、

毎朝ゆるみなく
死んでおくべきである。」


同様、キリストの教えの延長にも「汝の死を覚えよ(メメント・モリ)という思想がある。

我らクリスチャンの信仰のモチーフとなっている十字架。

それはローマ時代で最も過酷な処刑の道具であり、
「木(十字架)に吊るされた者は呪われた者」(申命21:23)と呼ばれ蔑まれる、
迫害と非難の象徴である。

そんな十字架のネックレスを身に付けることは、主の死の重さを背負うことと同義だ。
十字架のイラストを負ったシャツやネクタイ、身の回りの小物も全て、主の十字架の死を毎日我々に想起させるもの。

…少なくとも俺にはそうだ。
毎日、主の死を想い、十字架につけられた己の死を想う。


ところで、上記誤解して欲しくないのは「葉隠」が
ただ自殺願望的に「死ぬべし」
と言っているのではないこと。

鍋島武士は「死ぬ」という表現を
「私心を殺すこと」「我(エゴ)を超越すること」とも捉えている。

すなわち聖書に言う
「肉に死ぬ」「古い男を十字架につける」ことだ。

肉に死に、我を殺して後、
武士はお家や武士道(私的美学)に。
クリスチャンは主の御心に歩みはじめることに、違いはある。


18世紀前半の鍋島藩で、日本人が表現し得た武士哲学「葉隠」。
その思想に呼応するものが、未だ日本人のDNAに組み込まれているとすれば。

武士道日本人は、キリストの教えに対して「そうか」と頷ける部分が実は多いと思うのだ。


皆さんにもチャレンジだが、
もう一度自分のルーツを探して欲しい。

そうすれば、
あなたの深奥で涙している人間の本質、
自分以上の、この世界以上の存在を求める心、

いつも傍にいて、あなたのことを想い、
祈り、守り、愛して止まない「主なる神」への渇望が、

はっきりと認識できる筈だから。

―――――

<その他、「葉隠」より>
●救われない?:「義に従い戦い、他人の血をかぶり死体を乗り越えて生き通すことで、もし神が我に<穢れあり>と見捨てるならば仕方なし。
神を捨てて武士道を選ぶべし」

→神は赦し、神は救われる方…。

戦わざるを得なかった、その理由はどうあれ。
人を殺めた、他人の血を流したことに対して後悔の念を覚えるなら。
殺した相手の家族や親友らを想い、己の罪を認め深く悔い改めるなら…。

主は赦し、主は救われる。
そのこと、鍋島藩には伝わっていませんでしたね…。

●責任感、自負:「お家をひとりで背負うのだという気概を持て」

●他人への助言:「請け入れられない助言は、自分の力不足を示している。
意見するときは、まず信頼関係を築き、相手の請け入れ能力を見極め、
自分のミスを話したりして相手が自然に思い当たるように仕向けるのが上策である」

●独り善がり:「一人の浅知恵は根の少ない一本の病木(わくらぎ)に似る」

●あくび:「公衆の面前でアホ面を晒すな」

●規則を厳しくすれば:「人が安穏に生活できるのは、厳格さのもとではなく、無駄遣い(あそび・重複)の故である」

●不義・正義:「不義を嫌って(我の)正義を押し通す」→従来の欧米クリスチャンの姿勢。×

●失敗した者:「過ちの一つもない人間など信頼できない。
過ちを犯した者は後悔するゆえ、行ないを慎み御用にお役に立つものである。
心に負い目を持ちながら行動するし、こちらの公平さに対して感謝の念を抱くものだ」

→過ち・失敗の経験は、主にあって大いなる証となる。
その証は他の失敗者、落伍者とレッテルを張られた人々に対して救いの光となる。

●身だしなみ:「今日にでも討ち死に」という覚悟で。たとえ死んでも敵にさえ「見事」と思わせる身だしなみが、日本人の身繕いの基本だろう。

●徳川家康のエピソード:
「若き日の家康は、“自分には他に勝る突出した技も知恵もない。ならば私は誠実に命を賭ける”と言った」

●雨:「濡れまいとして身を縮めたり引っ込んだりするよりも、先に濡れておく覚悟で向かえば怯むことはない」
すなわち死に際しても、「日々好く死んでおく」ということである。

●他人の心:「人の心を見たければ患ってみろ」

●「武士道は死狂いなり」:一人の死にもの狂いで戦う武士を、何十人が囲んでも討てない時がある。
同様に、常軌を逸するほどの大志と情熱をもってすれば、人一人の行動は大業を成し遂げる。

●困難こそ:「困難こそ修行の導師。天よ、我に七難八苦を与えたまえ」

●大事こそ:「七呼吸の間に思案しろ。思案は長く経てば鈍る。心持ちがうろうろしている時は正しい決断などつかぬものだ。
よどみなくさわやかに凛とした気持ちで思案すれば、七呼吸の間に胆が据わって決断できる」

●源義経:義経和歌に「大将は部下によく言葉をかけよ」とある。お仕えしている者に平生でも火急の時でも、
「なんとも血気盛んな、優れた者たちだ」
「なんと良く仕える者たちだろう、一層よく働いてくれよ」と声掛けすることだ。

そうすれば、この一言で奉公人は身命を惜しまず働くのだ。

●教訓:「教訓する人は多い。教訓を悦んで聞く人は少ない。その教訓を受け入れて従う人はさらに少ない」

●和敬清寂:
「そのままではとても食べられない頑固なネギでも、他のものと和えると美味しくなるんです。
他の材料もネギと和えることによって活きるんです。
それぞれお互いが和え合うととてもいい味が生まれるんですね。

和敬清寂という言葉は、“和を敬えばとても心が清らかで寂か(しずか)である”という意味だそうです。

清寂と言ってもね、温もりのない清寂ではいけません。冷え切っていたのではねぇ。

理想的なのは、埋火(うずねび)ね。
火鉢の炭火を灰で覆って火種を取っておく、埋火ね。火種を絶やさない、温かみある清寂ね…。

温かみには、どんな人でも寄って来て手をかざすものですよ」

●迷己逐物(めいこしぶつ):「己に迷い物を逐う(おう)」
人は自分の心の中にあるものしか見えず、認識・理解できない。

自分の心の中に、美しい芸術や音楽を持たなければ、それらに出遭ったとき正しい評価も、感動もできないのだ。

犬の心に花はない。猫心に小判、豚心に真珠もない。だから踏みにじってあなたに向かってくる。(マタイ7:6)
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