Peter asked,“Lord, why can’t I follow You now?
I will lay down my life for You.”(John13:37)
ペテロはイエスに言った。"主よ。なぜ今はあなたについて行くことができないのですか。
あなたのためにはいのちも捨てます。"(ヨハネ13:37)
熱血漢ペテロはそう宣言しました。
イエスさまと12弟子の他の仲間たちの前で。…
でも、出来なかったんです。
果ては、主がペテロに
『鶏が鳴くまでに、
あなたは三度わたしを知らないと言います』
と告げた通り、その場・その時が来てもペテロはいのちを投げ出すことは出来なかったのです。
一体誰が…。
その時・その場で己の人生、己の生活の全てを投げ出して、
主の御名のために自分自身を差し出すことが出来るでしょうか。
その言葉に従い死んでいった人々がいます。
彼らは実際にそれをしたのです。
そして驚くなかれ。
従容と処刑されていったクリスチャンたち、
彼らは日本人です。遠藤周作氏著「沈黙」より引用します。(新潮文庫、昭和56年。71~75pg、意訳)
“二人のクリスチャンが水磔の刑に処された。
役人の執拗な改宗の脅しにも屈せず、キリストの約束を堅く握って離さなかったからだ。
十字架に組んだ二本の木が、波打ち際に立てられ、モキチとイチゾウが括り付けられた。
夜になり、潮が満ちてくれば二人の体はあごの辺りまで海に浸かるだろう。
そして二人はすぐには絶命せず2日も3日もかかって肉体も心も疲れ果てて息を引き取らねばならない。
そうした苦しみを他の部落民や百姓たちに見せ付けてやることで、彼らが二度とクリスチャンに近づかぬようにすることが役人の目的だった。
夜が来、監視の男たちは焚き火を焚いて警備を敷いている。
その海岸には周囲の部落民が群がり、ただ、暗い海を凝視していた。
生きているか死んでいるかも分からぬ二人のために、みんな泣きながら心の中で祈っていた。
その時、波の音に混じって彼らはモキチのものらしい声を聞いた。
この青年は自分の命がまだ消えていないことを伝えるためか、自分の気力を励ますためか、息たえだえに讃美の歌を歌ったのだ…。
みんな黙ってモキチのその声を聞いていた。
監視の男も聞いていた。
雨と波の音で、途切れ途切れてはまた聞こえてきた。”
この自虐的・自己破壊的でさえあるほど神の義を求めた日本人。
私たち頭で忘れていますが、
我々の遺伝子にはこの
深い悲しみと断固たる決意が刻まれている。だからこそ、郡山グレースガーデンチャペルの三箇豊美牧師の言うように、
日本人クリスチャンには確かに
30人、50人、100人分の価値があると確信するのです。
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