後藤 秀孝
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JAPAN
【完了した】
2013-05-22 Wed 15:57
ヨハネの福音書、19章。

それは主イエスに対するユダヤ人指導者らの偽装裁判と、
カルバリーの丘に至る十字架の歩み、
そして主の肉体の死が記述されている箇所です。

そこで示されたのは、主が死の直前に言われた

『完了した』

ということばでした。

―――――

十字架の上で、自分の痛んだ身体に思い煩うことなく、ただただ父なる神に委ねる祈りの中。

主イエスは

『わたしは渇く。』

と言われました。

全人類の救いのため、まだまだ課題があったのにこの世を去らねばならぬ。

そんな若干の悲しさ、寂しさと共に吐露されたことばだと受け取っていたのですが、その後に主の心を救った出来事がありました。




一人の兵士が、主のことばを聞き逃さず、
かつ周囲で嘲っていた当時の権力者達の目を怖れることなく、

「酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝につけて、それをイエスの口もとに差し出した」(ヨハネ19:29)のです。

それを受けられた後、主は

『完了した。』と言われたのです。

そして従容として、父なる神に霊をお渡しになったと書いてあります。



何が「完了した」のでしょうか。
主の地上においての物理的な役目、福音の起点となる一連のミッションは、確かに肉体の死を持って終わりを迎えました。

ですが私は、それ以上を示されたのです。

―――――

主に労わりを示した者。
それはローマ軍下の一兵卒。

イスラエルに送られた(つまり最危険地帯へ大左遷された)兵、
かつ死刑執行に携わる者…。

罪人の下着もくじ引きで分けるような。
分けざるを得ないほど貧しいのか、
それとも強欲なのか。…

人間としての品格さえ疑われる者。…


その彼が衝動的に、主に対してぶどう酒を差し伸べたのです。

渇ききった喉を潤すように。
血にまみれた唇を拭うように。…


それは人としての、純粋な思いやりの行為です。

それまで一緒に嘲り、主につばきをかけ、釘打たれる手を押さえ込んでいた兵の一人が、

「…今しかない」

と想ったのです。


主の死の直前に、自分が人間としての尊厳を示せるときは。

人としての思いやり、
人としての同情、
人としての共感を示せるときは…。


「あなたのことを聞いていたし、
今回の裁判の不当さも何となく感じていた。

朝っぱらからのユダヤ人たちの騒ぎと、
瞬間的に決まった処刑の慌しさ、過酷さも、変だなとは想っていた。


でも、あなた、何も、誰をも呪わなかった。

叫ばなかった。自分の正当性を。
何一つ自己弁護しなかった。


それどころか、

『父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているか自分で分からないのです』(ルカ23:34)

とさえ祈られたのだ。


こんな罪人を私は見たことがない。


彼のために何かできるとしたら、今しかない。」

後先考えずに、ただ、動いた。
人間の内から溢れる想いに突き動かされて。…


兵の小さな克己、行動を見て、
人類の内に眠る深い、大きな愛と慈しみの念を認めて、

主は

『完了した。』

と言われたのではないでしょうか。


小さな一人の思いやりと行動を見て、

人間、やっぱり捨てたもんじゃないね…。

そう満足されて、呟かれたその一言だったと、私は思うのです。

―――――

主が「捨てたもんじゃねえな、人間…」と思われるような、

ちょっと微笑めるような…。


そんな無名の一人に、私もなりたいと希望するのです。


今いるその場所で、
手の届く範囲、声の届く範囲で、

主に喜ばれる小さな一人に、私もなりたいのです。
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