後藤 秀孝
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JAPAN
【的 外れ】
2013-04-24 Wed 19:57
信仰の道に入る前、誰もがほぼ必ず躓くコンセプトが

「罪」 です。

「だって俺、そこまで悪いことしてないから」
「子どものころ、いじめっ子だった、かな…?(でも、子どもは残酷よねフフフ)」
「他人さまに迷惑はかけてない。全部自分の責任でやっているからいいでしょ。何したって」

そうですね。

ですが、上記で言う「罪」とは、
殺人や強盗、詐欺などに代表される「犯罪」
という意味で捉えられているのではないでしょうか。


しかし、キリストの道では、「罪」とは

「的外れ」
「方向を誤る」
(原語:ハマルティア、ギリシャ語)

という事なのです。




我々の人生で、何が「的外れ」なのか。

それは、私たちが

知り得ぬことばかりなのに知った振りをし、
出来ぬことばかりなのに全能のように振る舞い、
伝えきれぬことばかりなのに雄弁で、影響力があるかのように思い込む

そんな、己の弱さを自覚できぬほど「弱い存在」であるからです。


万物創造の神、天にも地にも我々の人生の中にも、広く深く存在される主なる神の存在を無視して、

世界の中心で「天上天下、私が独尊」と叫び、
エゴと欲の赴くままに好き勝手に生きていること。

それが「方向を誤る」ということです。


ただし、そこにも神の用意された救いがあります。

ルカの福音書、放蕩息子(ルカ15:11~32)のエピソードでも示されるとおり、父(=神)に背を向けて一人快楽の追求に向かった次男が、転落した人生の底辺から父を見上げて悔い改めたとき、父はその両手を広げて彼を迎え入れました。

真実に、父なる神は私たちの「放蕩」を認めつつも、
まずそれを赦し、私たちが新しく人生を再スタートするためのきっかけを、
ご自身の一人子の死と復活によって成し遂げてくださったからです。


神はとこしえにおられ、あなたのための壮大な物語を、世の初めから描かれていました。
また、神と私たちとをつなぐ聖書は、遥か6000年の昔から記述が始まっていた人類への「パスポート」です。

私たちはそれを知らずに、
または避けるようにして、これまで生きてきました。

でもそれはそこにあり、
私たちが心を向けさえすれば。
背を向けていた状態から、
それに向き合うことを望みさえすれば…。


神は両手を広げて、あなたを迎え入れて下さいます。

あなたの名前、今も呼ばれています。

―――――

<放蕩息子>

ある人に息子がふたりあった。
弟が父に、「おとうさん。私に財産の分け前を下さい。」と言った。それで父は、身代をふたりに分けてやった。

それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり、彼は食べるにも困り始めた。

それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。 彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。

しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。「父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。立って、父のところに行って、こう言おう。

「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。
もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。
雇い人のひとりにしてください。」」

こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。
ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。

息子は言った。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。」

ところが父親は、しもべたちに言った。「急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。 そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。 この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。」そして彼らは祝宴を始めた。

ところで、兄息子は畑にいたが、帰って来て家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえて来た。それで、

しもべのひとりを呼んで、これはいったい何事かと尋ねると、しもべは言った。「弟さんがお帰りになったのです。無事な姿をお迎えしたというので、おとうさんが、肥えた子牛をほふらせなさったのです」

すると、兄はおこって、家にはいろうともしなかった。それで、父が出て来て、いろいろなだめてみた。

しかし兄は父にこう言った。「ご覧なさい。長年の間、私はおとうさんに使え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめといって、子山羊一匹くださったことがありません。

それなのに、遊女におぼれてあなたの身代(しんだい)を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。」

父は彼に言った。「おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのがみつかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。」 15:11~32

死んだ者が生き返り
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