後藤 秀孝
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JAPAN
【苦しみの連帯】
2013-04-02 Tue 00:03
椎名麟三さんが受洗し、クリスチャンとしての人生を始めた時、彼は作家、故 遠藤周作氏にこう語ったそうだ。

「遠藤さん、ぼくは洗礼を受けたから、
これでじたばたして、虚空をつかんで、
死にたくない、死にたくないと叫んで
死ねるようになったよ。」




それを聞いて遠藤氏、なるほどとその意を汲んだ。
曰く「自分の醜いことをどんなにさらけ出しても、神さまには大したことではないからね…」

本当に、従容として死んでいくか、あがいて死んでいくか…。

老いるにつれて自己鍛錬を積んだ人もあれば、心の醜さばかりが出てくる人もあります。

じたばたしながら、また従容と、
迷い恐れながら、また淡々と…。
あなたが死に対する時、どちらの姿勢をとるのであっても。

一つ、クリスチャンの特権を申し上げます。

キリストの教えを真摯に受け取った者ならば誰しも、苦しい時に、

「イエスも死ぬ時にあんな苦しい思いをしたんだ。
今の私の苦しみはイエスの苦しんだ苦しみだ」
と、

主の十字架の身体に自分の肉体を重ね合わせて。
最後にすべてのことを肯定して「完了した。」と語って死んだイエスの死のプロセスに、自分の死を重ね合わせて考えられることです。

―――――

歴史を紐解けば、日本のキリシタン弾圧時代(16世紀後半~)。宣教師たちは、信徒が棄教せずに処刑される場合には
「必ず主イエスの苦しんだ姿や、その死の行程を心に思い描け」
と教えていたそうです。随分乱暴な教えだなァ。と思いますが、当時の信徒たちはいつ発見されて拷問されるか、殺されるかといった重大な状況でしたから、「自分の死の時にイエス・キリストの十字架の苦しみを想い、イエスと苦しみの連帯感を持て」と言って励ましたそうなのです。


あのイエスの死の痛み、絶望、孤独…。
肉体的にとことん痛められ、裏切られ、顧みる人も共に立ってくれる人もおらず…。
皮膚の裂き傷からとめどなく溢れる血潮と体液。額には鋭い鉄鉤が喰い込み、そして、その手と足首には、30cmほどもある大釘が容赦なく打ち込まれました。

時間が経てば直る、傷が癒えてまた歩けるようになる…。そんな希望度外視の、もう死ぬしか余地のない破壊。その苦しみの極限で、主は
『わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか』(マタイ27:46)と叫ばれたのです。

神不在の完全なる孤立、実はそれを「地獄」というのですが、そんなところにまでイエスは自ら落ち込んで見せてくれたのです。


そんな主が、死に際して言ったことばです。
『父よ。わが霊を御手にゆだねます。』(ルカ23:46)
父なる神に全幅の信頼を置いて、
そのご計画に身を任せたのです。


だから、私たちもたとえ苦しくても、少しだけ力を抜いて、委ねられるのです。
たった独りで戦っているように思えても、神さまは最後には救ってくださるから。

あの温かい光、
生命の流れの中に迎え入れて下さるのだから…。




「恐ろしくてもいいではないか、十字架上で苦しみの極致を体験されたキリストが、ともに私の恐怖を背負ってくださっている。私一人では、とても乗り切ることはできないが、わが内なるキリストが、共にて慈しみと憐れみのまなざしを注いでくださっている」(重兼芳子「たとえ病むとも」より)
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