後藤 秀孝
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JAPAN
【安心】
2013-02-23 Sat 06:22
「安心という心の状態は、システムで得られるものではないし、また、通常は、生きている間にはなかなか得られない。
もし、得られるとすれば、個人が自己との闘いの末、ある種の欲求を棄てることと引き換えに得られるもののような気がする。

その安心を与えるのは国や企業であるとなれば、だれもが自己との闘いをやめてしまい、結果として不安が大きくなる。
私は、当初、安心と言うのは飾り言葉のように捉えていて、それを本気で受け取る人がいるとは思っていなかった。(中略)

…不安との闘いという個人の心の課題が、
いつの間にか国や企業の責任に代わりつつあることを実感する
のである。
これではかえって不安、不安と言う人が増える。」(中西準子「安心・安全の氾濫が作り出す不安」中央公論2005年3月号)

上の中西さんの著に挙げられるように、現代日本人のどれほどが、「安心」「こころの平安」というものを政治や企業、経済発展に求めているだろうか。

医療や保険分野、
科学のBreak Through、
耐震構造、
安全な原子炉、

どれをとっても、人の手によってできたものだ。

そして人間は過つし、不完全な存在である。

そんなものに頼ることを「的外れ」(*)と言う。


主イエスの時代にも、救世主を求めた人々の多くは、
「的外れ」の期待をかけていた。

キリストを指して、
「この人こそ、イスラエルをローマ帝国の支配から救ってくれる方だ」
「政治的独立が果たせれば、私たちは幸福になれる」

「奇跡の力を持った彼が立ちさえすれば、
神の民(=俺たち)による
(俺たちの望むとおりの)支配が始まるはずだ」
と勘違いしたのだ。


ところが、イエスが彼らの考える
「解放者」
「政治指導者」
「武装蜂起の隊長」
でないことが明らかになったとき。

イエスが、政治力や経済基盤による「世的な安心」を求める民に対して、神の霊を受けることでの「主の平安」を求めるよう語ったとき。

「弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった。」(ヨハネ6:66)のだ。


更に残念なことに、最も近しい12弟子たちでさえ、最後まで主の真意を理解できなかった。

イエスさまがご自身の死について語られた直後、弟子たちの話題は
「じゃあ誰が主の後任になる?」
「誰がトップで、誰が副社長?」

そんなことだった。主は泣いていたよ、心の中で。

こうしたチカ目の弟子たち。
組織図がどうだ、ボアネルゲスがツートップだろ、会計はマタイかな。

そんな話題に終始していた弟子たちの足を洗い、主は最後の晩餐の席で、

『…主であり師であるこのわたしが、
あなたがたの足を洗ったのですから、
あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。

わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、
わたしはあなたがたに模範を示したのです。』
(ヨハネ13:13~14)と仰られた。

『組織の上に立とうと願うのでなく、皆に仕える者になりなさい』と。

『わたしがあなたがたを愛したように、
あなたがたも互いに愛し合うこと、
これがわたしの戒めです。』
(ヨハネ15:12)

こうした模範に従い生きるときに、
私たちは主にある平安を初めて受け取ることができる。

それはまさに、こう書かれている通りである。

『わたしは心優しく、へりくだっているから、
あなたがたもわたしのくびきを負って、
わたしから学びなさい。

そうすればたましいに安らぎが来ます。

わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。』(マタイ11:29~30)

心の平安、真の安心は、主のみことばを信じる信仰にある。

私たちも、人生の的のど真ん中に向けて、
愚かに見えてもいい、ゆっくりでもいい。


弓を引き絞り、魂の矢を解き放って生きたいと願うのだ。

―――――
(*)聖書でいう「罪」は英語では「sin」ですが、新約の原典ギリシャ語では「ハマルティア」であり、本来は「的外れ」という意味です。

―――――
『神の国とその義とをまず第一に求めなさい。』(マタイ6:33)

『富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。
あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。』(マタイ6:20~21)

『わたしがあなたがたに何をしたか、わかりますか。
あなたがたはわたしを先生とも主とも呼んでいます。あなたがたがそう言うのはよい。わたしはそのような者だからです。
それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。
わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。』(ヨハネ13:12~15)

『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。』(マタイ11:28~30)

『まことに、まことに、あなたがたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持ちます。
わたしはいのちのパンです。

あなたがたの父祖たちは荒野でマナを食べたが、死にました。
しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがないのです。

わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。』

すると、ユダヤ人たちは、「この人はどのようにしてその肉を私たちに与えて食べさせることができるのか」と言って互いに議論しあった。

イエスは彼らに言われた。『まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。

わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。
わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。

わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。
生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。
これは天から下って来たパンです。あなたがたの父祖たちが食べて死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。』

これは、イエスがカペナウムで教えられたとき、会堂で話されたことである。
そこで、弟子たちのうちの多くの者が、これを聞いて言った。「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか。」

しかし、イエスは、弟子たちがこうつぶやいているのを、知っておられ、彼らに言われた。『このことであなたがたはつまずくのか。
それでも、もし人の子がもといた所に上るのを見たら、どうなるのか。

いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。
しかし、あなたがたのうちには信じない者がいます。』―イエスは初めから、信じない者がだれであるか、裏切る者がだれであるかを、知っておられたのである―

そしてイエスは言われた。『それだから、わたしはあなたがたに「父のみこころによるのでないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできない」と言ったのです。』

こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった。(ヨハネ6:53~66)
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