(フィリップ・D.・ヤンシー“Church:Why bother?”より)
教会とは:
●必ずしも信仰がしっかりしているから行く、という場所ではなくて、手に何も持たず信仰が乏しいからこそ行く場所。
●神を礼拝する場所。
●神を礼拝する人々が、神と出会う場所。
●(会衆ではなく)主賓である神に喜んでもらう場所。
●表面上の共通点がない多様な人々が、イエス・キリストへの信仰という唯一最大の共通点を与えられ集う場所。
●「全ての人の利益のために存在する、世界で唯一の共同社会である。」
●肥料のようなもの。ただ積み重ねておくと周囲に悪臭を放つ。けれども、広く蒔くと世界を豊かにする。
●競争や比較、批判否定といった害毒を取り除いてきよめ、恵みで満たしてくれる場所。
●「キリストにある」という新しいアイデンティティを祝い、よく働かせる場所。
●「この世界」とまったく相反する集団。
●競争とさばきと序列の世界―――恵みなき社会―――に恵みを伝える場所。競争や非難という害毒を取り除いて清め、恵みで満たしてくれる場所。
●神を見上げることを学ぶと同時に、自分の周囲の人々をも見ることを学ぶ場所。
●エンターテイメントよりも礼拝を、画一性よりも多様性を、排他性よりも周囲への奉仕を、律法よりも恵みを多く提供すべき場所。
●神の恵みを体験したら、その恵みを他の人たちにも経験して欲しいと思うものである。そして恵みはいつも無償で、条件なしに与えられるものである。教会で起こっていることは、この世のやり方とは全く正反対である。そして教会には神の約束が満ちている。その意味で、教会は新しいしるしなのである。それゆえに、教会は、いかなることがあろうと、大切な存在なのだ。
●神の福祉事務所、つまり目の見えない人を癒すため、捕らわれた人を解放するため、飢えた人に食物を与えるため、そして貧しい人に福音をもたらすために設立された組織である。これが、イエスが与えてくださった本来の使命である。
●神の応急センターである。終夜開いており、見つけやすい場所にあり、予期せぬ事態に遭遇し困って訪ねてくる人々の必要に喜んで答える場所である。
●人の傷を癒す場所。
●人間の心的ニーズを満たす、愛に溢れたコミュニティー。
●私たちが自らの痛みをもって来ることのできる所である。なぜなら教会は、私たちにいのちを与えるためにご自分のからだを裂かれたお方によって建てられたのだから。
●家族としての教会。神の眼差しは、国家や都市、企業、政府、NPO、そんな団体組織ではなく、構成員の肩書きや地位、資格と言った優劣ではなく。「好き嫌いを超えた領域で、愛がいかにして存在するのかを教えてくれる」場所、家族としての場所に注がれている。
●家族のようなものである。どの家族にも成功者がおり、悲惨な失敗者がいる。盆暮れ正月の日、会社の副社長をしている叔母さんは、大酒のみで失業中の伯父さんの隣に座る。テーブルに集まった人たちの中には賢い者も愚かな者も、変わった者も魅力的な者も、健康な者もからだに障害のある者もいるが、家族においてはこれらの違いはそれほど重要ではない。従兄弟の一人は自分が家族から疎外されているかのように振舞っているが、彼の意図通りには行っていない。私たちはみなそうであるが、同じ祖先から生まれ、細胞の中に同じ遺伝子があるというだけの理由で、従兄弟も伯父叔母も誰もが、家族の一員なのである。失敗したからといって、家族の資格が取り消されるわけではない。教会も同様である。
●家族と教会の違い。それは、共にイエスにつながっているがゆえに、自ら進んで見知らぬ多様な人々との交わりを作っていく必要があることである。そのようなコミュニティーは、他のどの組織にもまさって、自分の好き嫌いを越えた、神の愛の表現が求められる場所だ。
●苦しみや困難な状況が予想されるために教会が奉仕の活動をなおざりにすると、その教会自身が苦しむことになる。教会は成長せず、成熟もしない。
イエスは最後の晩餐で、教会の働きの模範を示された。
「さあ、管理職を選ぼう。指揮系統を明確にして、プロとしての基準を決めよう」という具合に、弟子たちが組織化を進めようとしていたその一方で、イエスは静かに手ぬぐいと水の入ったたらいを手にして、弟子たちの足を洗い始められた。『わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです』(ヨハネ13:15)と、イエスは言われた。この奉仕の精神こそが神のみこころを行なう教会の唯一重要な特徴であると、私は認識するようになった。
●世間が評価するような報いをほとんど受けない代わりに、働きに対する報いは奉仕者の内面で必ず実を結ぶ。
●近所の溜まり場のようなところで、そこに集う人たちが皆、あなたのひどい上司のこと、ノース・カロライナに住む心臓病の母親のこと、言うことを聞かない十代の息子のことを良く知っている。そこでは、心を開き、自分の人生について心置きなく話すことができ、そして軽蔑のまなざしではなく、同情の目をもって見てくれる。
●神は、シナイの幕屋にもエルサレムの神殿にも居られない。神は、私やあなたのようなごく平凡な人間の中に住むことを選ばれたのである。神の教会は「人」から成るのであって、コロラドやシカゴなどにある建物ではない。
●新約聖書は、教会の外にいる人たちのために活動する教会の姿を示している。私たちの教会が神のお考えになった姿から遠ざかっている原因は、何なのか。
●私たちは皆、奉仕へと召されている。だが、チャレンジというものの性質を理解していなければ、教会にいる者は、この世のためではなく、自分たちのために、教会の働きを切り詰めたり縮小したりすることになるに違いない。これを宣教の「職業化」とでも言おうか。そうなるとき、私たちは他の組織となんら変わらないものとなり、教会に与えられた特別な召しは姿を消してしまう。
●奉仕する教会では、あわれみ(言葉の真の意味は「共に苦しむ」)、謙虚、忍耐、そしてほとんどの大企業では問題にされない資質を学ばされる。しかし世が評価しないからといって、神が下さる報いを割り引くことはできない。それは、神を喜ばせる働きであり、人が他の仕事で得るどんな大金や名声よりも尊いからだ。福音書の中でイエスは『私たちはいのちを失うことによっていのちを見出す』と言っている。私たちは人に仕えるときに、もっとも良くいのちを失うのである。
●「神の畑」「神の建物(神殿)」「神のからだ」
●多様性のある場所。大金持ちの夫人も、家族をやっと養っている貧しい労働者も、平等に歓迎されるべき場所。
●教会は私にとって、競争したり行ないを評価されたりする場所のひとつであるはずがない。教会とは勝利を収めた戦士たちの勝どきが聞かれる場所、歓喜する場所、感謝する場所である。全ては赦されており、神は愛であり、勝利は確かであるという素晴らしい福音を祝う場所なのである。
●教会は外の世界に向けられた恵みの灯台であって、律法主義の要塞ではない。
●教会は神の顔だ。この世界は神の栄光の直接的な光にはとても耐えられない。だから神は、人間をご自身の最良の表現として用いられたのだ。
●主なる神が、イエスキリストが、この家の主人である。
●不完全な人間が、不完全な運営でもって、完全なる神の愛を表そう、現そうと努力する場所。
「ミルピタス・ハイスクールのオーケストラがベートーベンの第九交響曲に挑戦するとき、その結果たるやひどいものです。」アール・パーマー牧師は語る。「その演奏のすごさには、耳の聞こえないベートーベンでさえ、墓の中でひっくり返るほどのものです。あなたは『なぜ第九なんて難しい曲を…』と訊ねるかも知れません。何でわざわざ、ベートーベン不朽の名曲を演奏するなどという過酷な試練を、この子たちに負わせるのですか。あの有名なシカゴ交響楽団ですら完璧に演奏することはできないのに、と。」
「私の答えはこうです。聴衆の中には、ベートーベンの第九交響曲と出会う唯一の機会がこのミルピタス・ハイスクールのオーケストラである、という人もいるでしょう。完璧には程遠いのですが、それでもそれは、その人にとって、ベートーベンのメッセージを聞く唯一の方法なのです。」
礼拝も同様に。完璧には程遠いとしても、それが人々にとって、主の福音を聞く唯一の機会になるかもしれない。
その他:
●痛みに敏感であることは、一つの財産である。神から与えられた賜物である。私たちの心を打ちのめす涙が、神のとって最善の方法で私たちを育てることがあるのだ。
●永劫を通じて神はご自分の被造物をご覧になった。終わりのない失望は、尽きない愛に勝てなかった。
●福音はこれを必要としない人には、ほとんど何も提供しない。
●もともと福音は無学な人たちに委ねられた。
●律法のもとでは、私たちは成功しなければならない。失敗は許されないのだ。私の運命は全て、私の行ないと実績にかかっている。周囲の人と神を喜ばせるためには、勝利しなければならない。私の人生がそれにかかっている。もし失敗すれば、私は永遠の業火に投げ込まれるだろう。成功しなければならない。失敗は許されない…。
イエスの支配する王国は私たちをもう一つの生き方へと導く。私たちの行ないに頼るのではなく、イエスに頼る生き方だ。私たちは目標を達成しなくともよい。ただイエスに従えばよいのだ。イエスは既に、私たちのために高い代価を支払って、神の御恵みを勝ち取ってくださった。だから、教会は私にとって、競争したり行ないを評価されたりする場所のひとつであるはずがない。教会とは勝利を収めた戦士たちの勝どきが聞かれる場所、歓喜する場所、感謝する場所である。全ては赦されており、神は愛であり、勝利は確かであるという素晴らしい福音を祝う場所なのである。教会は外の世界に向けられた恵みの灯台であって、律法主義の要塞ではない。
●悲しみ痛む人に、彼のその苦悩を私たちも担い、家に持ち帰って泣いたり、祈ったりしていることを伝えられることは、彼にとって大変大きなことだと思う。
●恵みは、受ける資格のない人々のところにやってくる。
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