マルコの福音書の中で、イエスさまは2度、こう問いかけられています。
一度目は二人の弟子たちに。
二度目はバルテマイという、盲目のこじきに。
もちろん、弟子たちの方が主に近く、その考えも恩恵も近しく受けていたわけですが。
主の問いかけ、
『わたしに何をして欲しいのか』(マルコ10:36、10:51)に対して、
愚かな回答をしたのは弟子たちであり、
その恵みに与ったのは、盲のバルテマイでした。
「彼らはエリコに来た。イエスが、弟子たちや多くの群集といっしょにエリコを出られると、テマイの子のバルテマイという盲人のこじきが、道ばたにすわっていた。
ところが、ナザレのイエスだと聞くと、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください。」と叫び始めた。
そこで、彼を黙らせようと、大勢でたしなめたが、彼はますます、「ダビデの子よ。私をあわれんでください。」と叫び立てた。
すると、イエスは立ち止まって、『あの人を呼んで来なさい。』と言われた。そこで、彼らはその盲人を呼び、「心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたをお呼びになっている。」と言った。
すると、盲人は上着を脱ぎ捨て(*)、すぐ立ち上がって、イエスのところに来た。
そこでイエスは、さらにこう言われた。
『わたしに何をして欲しいのか。』すると、盲人は言った。
「先生。目が見えるようになることです。」するとイエスは、彼に言われた。
『さあ、行きなさい。
あなたの信仰があなたを救ったのです。』するとすぐさま彼は見えるようになり、イエスの行かれる所について行った。」(マタイ10:45~52)
ここで考えさせられたのは、
①バルテマイが、「何が一番叶えたいことか」を常に明確にしていたこと。
②もし後藤が主に『わたしに何をして欲しいのか』と聞かれたとき、即答できるか?ということ…。
後藤は今、何が一番乏しくて、何が一番必要なのだろう。
その必要を、主が一瞬にして満たしてくれると確信しているなら、何を尋ねるべきだろう…。
…
……
妄想は色々。でも自分のエゴイスティックな欲求や、世的些事ばかり。
ですが、「主のために生きる」と決めて歩んできた後藤に、一つだけ足りぬ物、欠けている物があった。
それは勇気であるし、信仰である…。残念ながら。
『わたしに何をして欲しいのか』
「主よ、あなたの御名によって宣教する勇気を、信仰を下さい。」
『So be it.(あなたの信仰のとおりになれ。)』主は呼応して下さいます。
何度でも。その度に私の心を慰めながら…。
『祈って求めるものは何でも、
すでに受けたと信じなさい。
そうすれば、そのとおりになります。』(マルコ11:24)
『心の中で疑わず、ただ、
自分の言ったとおりになると信じるなら、
そのとおりになります。』(マルコ11:23)
『信じる者には、
どんなことでもできるのです。』(マルコ9:23)
信じます。主よ。
信じます。主よ。
主よ、私があなたを信じることは、あなたがご存知です。
(*)当時の社会では、上着と言うのは単に正装を意味せず、一張羅であり、かつ寝具でもあったようだ。旧約に「上着を質草に取っても良いが、晩までには返却するように」と書かれている。
その上着を放り出して主の下に歩み出たバルテマイは、やはり信じたのだろう。今しかない、この方しかいない、と…。
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