後藤 秀孝
http://afg2.blog74.fc2.com/
JAPAN
スポンサーサイト
-------- -- --:--
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

別窓 | スポンサー広告 | top↑
【あざ笑う 我】
2012-12-28 Fri 12:10
「イエスが船でまた向こう岸へわたられると、大勢の人の群れがみもとに集まった。イエスは岸辺にとどまっておられた。

すると、会堂管理者のひとりでヤイロという者が来て、イエスを見て、その足元にひれ伏し、いっしょうけんめい願ってこう言った。「私の小さい娘が死にかけています。どうか、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください。娘が直って、助かるようにしてください。」
そこでイエスは彼といっしょに出かけられた(中略)。

イエスがまだ話しておられるときに、会堂管理者の家から人がやって来て言った。「あなたのお嬢さんはなくなりました。なぜ、このうえ先生を煩わすことがありましょう。」
イエスは、その話のことばをそばで聞いて、会堂管理者に言われた。

『恐れないで、ただ信じていなさい。』(中略)

彼らはその会堂管理者の家に着いた。イエスは、人々が、取り乱し、大声で泣いたり、わめいたりしているのをご覧になり、
中にはいって、彼らにこう言われた。『なぜ取り乱して、泣くのですか。子どもは死んだのではない。眠っているのです。』

人々はイエスをあざ笑った。」(マルコ5:21~40)


上記を読んでいて、違和感と言うか、人類がっかり感というか、を感じたことがあった。

何をって、人々が「イエスをあざ笑った」というくだりである。


何故なら、そこに集まっていた群衆は、ヤイロの娘さんが亡くなったことを嘆き悲しんでいたのだから。

娘が蘇生する可能性が少しでもあるのなら、
「頼みます」「やってください」「お願いです」…という反応が出るのではないか。


ただ、当時のユダヤ人社会を振り返ると、駄賃をもらうプロの泣き屋が存在したと言うし、

ヤイロ自身が上位のユダヤ人宗教指導者であり、
ユダヤ人から見ればイエスの存在は異端も異端、敵視した者もいたであろうことは容易に想定できる。


だが、その歪んだ愉悦の根底にあるのが、私たちの「常識」ではないか。

「医師が死亡と診断したのなら、死亡」
「一度死んだらもう甦らない」

その常識を覆す発言をした救世主を、
自分たちの量りで量って、あざ笑ったのだ。



そして同時に気付く。
「常識を覆す発言」をする者を、「あざ笑う」狭量な自分もいる。

「そんなの無理だろ常考…」と白けている自分がいる。

「信じます」と言いながらも、踏み込まない自分がいる…。


2000年前のあざ笑う聴衆と何一つ変わりない、

弱く小さい自分がいる。罪びとの自分がいる。

湖も風も従うとは

恵み深い主。どうか私の信仰を増してください。

『人にはできないことが、神にはできるのです。』
(マルコ10:27)と、私がたましいで信じることができますように。
スポンサーサイト
別窓 | Christianityってなんですか | コメント:0 | トラックバック:0 | top↑
<<【明らかなこと】 | キリストの愛を 超多忙なあなたに | 【Building the Ark】①>>
この記事のコメント
コメントの投稿
 

管理者だけに閲覧
 

この記事のトラックバック
| キリストの愛を 超多忙なあなたに |
copyright © 2006 キリストの愛を 超多忙なあなたに all rights reserved. powered by FC2ブログ. template by [ALT DESIGN].
/
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。