後藤 秀孝
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JAPAN
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【一番 最初の 記憶③】
2012-12-07 Fri 11:22
前回、私たちの人格を形成する記憶の話をした。その際、

「もし親のネグレクトや暴力などによって、冷たく痛い負の記憶しか刻まれていないとしたら、どうして人生を良く、前向きに生きられるだろうか」
「そんな経験から生み出された怒りや不穏、自己肯定感の低さなどは、拭い去れないのだろうか」と締めくくった。

答えはある。
もちろんキリストである。

これから、論点の飛躍を埋めよう。



記憶の柱を語る際に共有しておきたいことがある。人間の記憶や思考回路の構造である。

後藤解釈だが、人間には

①表層の意識・
②深奥の無意識
と、その間に漂う
③暗黙知(=言語化されずに蓄積された知、齋藤孝氏 解釈)の層がある。

暗黙知の領域を通じて、人は無意識のテリトリーから

「好き・嫌い」
「善い・悪い」
「したい・したくない」

等の選択・判断・意思感情を取り出しているわけだが、無意識から出てくる感情というのは一種圧力を伴い、我々には抑える・管理することができないものだ。

例えば排便の介助などする際、どうしても「臭い」と思うことは仕方が無い。キツイ批判を投げかけた上司を「憎い」と思うこともある。昼食時客の全くいないラーメン屋に「こりゃダメだ」と背を向けることもまた、無意識→暗黙知→意識への瞬時の判断・選択の帰結である。この重要性がお分かりだろうか。一日のうち何度、無意識から意識までの交流がなされているか。


そして、この感情等の流れは一方通行ではない。私たちは

<意識→暗黙知→無意識へも、働きかけることができる> のだ。

成功哲学の祖、ナポレオン・ヒルもこのように言っている。
「目標達成と成功のイメージを常に自分に言い聞かせることだ。自己イメージが変わることで行動が変わり、行動が変わることで結果が変わる。」(意訳)
「強い人が勝つとは限らない。すばらしい人が勝つとも限らない。<私はできる>と考えている人が結局は勝つのだ。」

感情についても同じである。「嬉しいから笑うのではない。笑うから嬉しいのだ」(ウイリアム・ジェームズ)というのも、「笑う」という意識的行動によって、無意識の混沌を「嬉しい」「幸せ」という方向に向けるができることを示している(このことは辛いとき、悲しいときにぜひ試してもらいたいのだ。人間にとっては「カラ元気でもマジ元気」になるのだから。)


ここまでで

<無意識→意識、そしてその逆もある>

ことが分かったが、その工程で、キリストの果たす役割とは一体何か。


あなたの仰りたいことは分かる。
約2000年前に生きていない私たちには、生のイエス・キリストを知ることは到底不可能なこと。

そこで唯一の手がかりとなるのが彼について記載されている聖書である。聖書を読み込み、時に暗唱することで、一体何が起きるのか。


聖書の小節、特に詩篇などは、作者の想いの発露、苦難の中の信仰告白である。置かれた時代や状況は違っても、もしその詩人の想いに同調できる部分があれば、嘆きの後の豊かな救い・主にある希望へと想い馳せることができる(人間はみな弱いのだから)。

また、聖書の内容、特に登場人物の感情について想い豊かに読み抜くことで、預言者たち、キリストのまたその弟子たちと記憶の共有さえ可能になる。

●その宣教人生の全てを、貧しく傷ついた民たちのために行なった主イエス。それを快く思わず、罪をあげつらい死罪にまで追い込んだ当時の宗教指導者たち。彼らに対しての怒りや憎しみ、報復など一言も発さずに、ただただ「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているか自分で分からないのです」(ルカ23:34)と祈られ、天の父の意思に殉じたキリスト。「死にまでも従う」と大口たたいて、しかし逃げ出し、「キリストなど知らない」と自己保身にはしった弟子(ヨハネ18:17)に対しても「…わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけて上げなさい」(ルカ22:31~32)と言われた主。その弱者に対する慈しみ、寛容、愛…。

●蔑まれてきた取税人としての人生。そんなマタイを訪れてくれたキリスト。なぜか素直に、これまでの罪と繰り返した悪行を悔い改め、溜め込んだ資産を全て搾取した者たちへ返却し、主に従ったマタイの、かつての罪悪感、自己嫌悪からの救い。主の群れに加われることへの歓喜…。

●「信じねー。ぜってー信じねー」(ヨハネ20:25)と言っていた弟子トマス。主が皆の前に現れ、その十字架の釘の跡にトマスの指を這わせ、わき腹の刺し傷に手を触れさせた。トマスは「私の主。私の神」と絶句した。過失を認める恥ずかしい気持ち、参った、負けましたよ…という観念、そして何より、生ける主に再会できた喜び、感動…。

●パウロがローマに向かう旅路で。信仰によって船員・ローマ兵・罪人ともども嵐の海から生還し、浜辺で焚き火をしていたとき。火に巻かれたマムシがパウロの腕に噛み付いた。パウロは蛇を振り払ったが、周囲の人は「ああ、この人は神々の罰から逃れられなかった」と、じき悶絶するであろうパウロを見守った。しかし何の害も受けないパウロを見て、彼らはパウロを聖人と思った…。そんなパウロの衝撃体験と、神に信頼し恐れない姿勢。

他にも●ダビデの放浪、●ダニエルと獅子の晩、●ヨセフの地下牢、●エリヤ対450人、●ヨブの嘆き、…。聖書には他にも、数え切れないほどの「記憶」が残されている。その記憶は時に痛みと悲しみ、孤独と絶望の記憶ではあるが、父なる神への信仰によって導かれ、救い主への恵みを信じて歩むことで必ず最後には勝利する「主にある光の記憶」なのだ。

この聖書を読み込むことで、
私たちの意識レベルから暗黙知へ、
暗黙知の領域から無意識の暗闇へと、
信仰の光が吸い込まれていく。


仮に我々の無意識のブラックホールが、憎しみや悲嘆などの毒で満たされていたとしても。

「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。
たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる」
(イザヤ1:18)

こう書かれた神のことばを読み抜きし、消化して信じることができた瞬間に。
意識→無意識への働きかけの中で、あなたの暗闇は光に満ち始める。

もっと光を、もっと良いものを、もっと善なる意思を…。と渇望し、読み進める内に、我々の内の廃墟は一掃され、新しい都が、理想の人生が、少しずつ無意識のテリトリーに発現していくはずだ。


無意識から湧き上がる感情は明も暗も、是も非も、老いも若きもあるわけで、しかも我々にはその溢れ出るものを抑える力も無い。できるのはただ口を閉ざし、それら要素が外へ噴出することを抑えるくらいだ(しかしその要素は、安心したまえ、表情や声音といった非言語のメッセージに滲み出ている)。

ただただ耐え忍び、押さえ込むことが受動的対応ならば、
意識的に聖句を取り込んで無意識の領域を光と味わいで満たしていくことは能動的な対応と言えるだろう。

無意識→暗黙知→意識、の片側通行で、常に感情反射に左右され生きていくことよりも、
意識→暗黙知→無意識への働きかけを通じて、主の約束された天の御国をこの地上(あなたの人生)に発現させることは可能なのだから。

だから、キリストなのである。

聖書、読むべし。
無意識の闇、照らすべし。
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