2011-02-26 Sat 23:42
以下、出典忘れました。昔読んだ書籍から思い出した話を少し。
【セラペウオー(=セラピー、癒し。ギリシア語)の神】 セラペウオーの神は、癒しの神です。 そう言うと、多くの人は「へぇ~、すごいね!」と羨ましがるのですが。 本人にとっては「とんでもない!」能力なのです。 セラペウオーの神は、病人に触れ その病を自分の体内に取り込みます。 つまり、自分がその人の病を担うのです。 セラペウオーの神は、もともと元気で明るい人(?)ですが 他人の病を負って、自分も苦しみます。 時には生死の境をさ迷うほどに…。 … セラペウオーの神が、昼夜苦しんで。 自分でその病を乗り越えた後。 良くなった体調を、病気だった人に返します。 セラペウオーの神の、汗と苦しみとお陰で、その人は癒されます。 でも神なので、元病人の彼/彼女からは、 セラペウオーの神は、見えません。 セラペウオーの神は、それでも、 「良くなって、良かったね」と笑って、 更なる癒しが必要な方のもとに向かい、去っていくのです。 ![]() スポンサーサイト
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2011-02-25 Fri 18:50
先週土曜日、上野公園 あおぞら礼拝に行った時のこと。
セカンドハーベストジャパン殿が実施している炊き出しの列で給食を受けたのち、トポスキリスト教会の集会に参加される方も多くいらっしゃいます。その中でひとり目を引いたのが、車輪付のキャリーバッグと大きなボストンバッグで両手を一杯にし、バックパックを背負ったおっちゃんでした。背の高さは大体150cm、老いた風貌と汚れた身なりで、重そうな荷を引き摺るように歩いています。 防寒のための分厚いダウンジャケット。その肩に食い込む重いバックパック。 生活道具の一切をその身に負っての逃避行。 その歩みはのろく、歩幅も狭く。 その表情は、今「食事にありつけた」という喜びを映すのではなく、孤独と悲しみを湛えていました。 ![]() |
2011-02-21 Mon 14:26
「わたしはあなたの名を呼んだ。
あなたはわたしのもの。 …見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ。」(イザヤ43:1~、49:16) 後藤の好きな聖書箇所の一つが、上記イザヤ書にある神の承認です。 父なる神は、あなたの「名を呼び」あなたを「求め」、あなたの名を文字通り「手のひらに刻む」ほど愛していらっしゃる。その宣言ですね。 ![]() |
2011-02-19 Sat 12:00
特定非営利活動法人(NPO)の設立にある様々な制約(*)により、なかなかスタートを切ることが困難だった活動ではありますが、ティーンチャレンジ・ジャパンの木崎氏の活動により示された「一般社団法人」という法人格も、ほっぷの活動の幅に何ら影響なく行けそうだ…!と判明。即調査してみました。
*「特定非営利活動」とは、 (1)法が定める17種類の分野に当てはまるものであって、 (2)不特定かつ多数のものの利益の増進に寄与することを目的とする活動のこと。 つまり、特定された17の活動分野において、広く社会一般の利益のための活動を行う団体。 (*)制約 十名の賛同者と、彼らの住民票 定期理事会の開催 17の特定事業分野を指定する必要がある(変更には時間が掛かる) 青色申告程度の会計処理 ![]() |
2011-02-17 Thu 00:41
「チャームンダーは墓場に住む。
だから、彼女の足下には鳥に啄まれたり、ジャッカルに食べられている人間の死体が横たわっている。 チャームンダーの乳房は、もう老婆のように萎びている。 だが、その萎びた乳房から乳を出して、並んでいる子どもたちに与えている。 女神の右足はらい病(ハンセン氏病)のため爛れており、 腹部も飢えでへこみにへこみ、しかもそこにはサソリが噛みついている。 彼女はそんな病苦や痛みに耐えながらも、萎びた乳房から人間に乳を与えている。」 遠藤周作著『深い河(Deep River)』より ![]() |
2011-02-16 Wed 00:37
私は、緊急救命の隊員ではない。
私は、医師や看護師などの、医療関係者ではない。 介護職員や、社会福祉士でもない。 私は、民生員ではない。 ましてや、役所の福祉担当ではない。 私は、牧師ではない。 カウンセラーでも、バーテンダーでも、診療内科医でもない。 私は、あなたの親兄弟でもない。 私は、実に、あなたにとって、一体全体、何でもない。 ![]() |
2011-02-15 Tue 00:30
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2011-02-14 Mon 00:30
日本人の感覚にもっともぴったりくるもの。そして、海外の人間にとり、理解困難であり、同時に完全なる同意を得て居るもの。それが、「もののあはれ」という感性です。
それは、香り高い百合に求めるのでも、高貴なる薔薇に求めるのでもなく。春の訪れに一瞬だけ咲き誇る、あの桜の花を尊しとする感覚。 野鳩がその死体を晒さず、一人山(死地)に向かい飛んでいく夕べに、その生命の儚さ、愛おしさを想い涙するこころ。 自分のいのちを犠牲に捧げ、なお気高く微笑む滅美のセンス。 正義が廃れ果ててしまった現世にあっても、自分の手の届く範囲において、優しさと奉仕、慈しみと寛容・・・それらを繋いでいく「良人」の営み。 誰に誇れるわけでもない。損な役回りを敢えて受け、笑顔で返す。その孤独や悲しみは胸に秘めて・・・ そんな感覚を、日本人としての品格を、私はキリストを知って、改めて自覚させられたのです。 ![]() |
| キリストの愛を 超多忙なあなたに |
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