後藤 秀孝
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JAPAN
私たちはみんな、「孫悟空」です
2007-05-31 Thu 18:19
能力があって、周囲に敵なし、好きなことを何でもやって、「自分最高!」で。
規則とかルールとかに反発し、つっぱって、憤って、でもどうにも変わらない現実にフラストレートして。

自分のサル山で他の猿たちの親分として、悪童ではあるが彼らを守り、彼らを養って、自己満足を得て。
海中の龍宮(浦島さんの行ったとこですか)や対岸の傲来国から大量の武器を強奪し、配下の猿を軍隊にまとめ上げて。

しまいに自ら齊天大聖(=天にもひとしい大聖人)と称したため天界からテロリスト扱いされて、ついに令状がでたという強者。

そう、彼は全ての上にある方――神さまに楯突いて、「やれるモンならやってみろ」とばかりにケツをまくり、自慢の筋斗雲で逃げ出すわけです。「俺さまについて来られるならね~」

あとは、皆さんもご存知の通り。

壮大な天地を巻き込んだ追いかけっこの結果、彼は全てが神さまの「掌の上」だったことを知るのです。
全ては、神さまの計画の内だったと。

でもそれは、全ての人に救いを与えて、私たちを幸福にするための、神さまの大いなる計画だったのでした。
「花果山の猿妖」が、「神の使徒」に変わった瞬間です。


そう、私たちもみんな、「孫悟空」と同じです。

神さまの大いなる計画の中で、でもまだそれについて理解がなく、自分勝手に好きなことをし、行きたい方へと進んでいきます。「天上天下俺さま最高」で、他人のことなんかあんまり興味なくて。

時が良ければ調子に乗り、ラッキーで勝利すれば勝ち誇り。

しかし、ついに人生の嵐に晒される時が来ると。
道に迷い、暗やみでただ膝を抱えていたり。
希望が見えず、時に後悔し、時にへこみ、時に泣いてしまったり…。

誰しもそんなこと、ありますね。


そんな私たちを、神さまは「わたしはあなたを愛している。」「わたしがあなたの先を行き、どんな苦境にあっても、あなたを背負って救い出そう」と言ってくださいました。

「思うように行かない」「救いのない人生」という牢獄から、解放してくださいました。
私たちを包み込む漆黒のやみに、希望の光を与えてくれました。


「悪童」孫行者がその愛に感化されて、真理とまことの道を歩んだように。
私たちが今、どれだけ自画自賛して猿妖化していようと。
神さまの愛は、私たちを包んで、謙虚にし。
ご自身の計画に従って、まっすぐに歩ませてくれます。

一人でも多くの方が、主イエスに会い、その慈しみと愛を知ることができるように。あなたの祈りも、貸してくれますか…?
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猿

さる
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Why you call Me “Lord, Lord”
2007-05-30 Wed 20:41
「なぜ、わたしを『主よ、主よ。』と呼びながら、わたしの言うことを行なわないのですか。
わたしのもとに来て、わたしのことばを聞き、それを行なう人たちがどんな人に似ているか、あなたがたに示しましょう。
その人は、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、それから家を建てた人に似ています。洪水になり、川の水がその家に押し寄せたときも、しっかり建てられていたから、びくともしませんでした。
聞いても実行しない人は、土台なしで地面に家を建てた人に似ています。川の水が押し寄せると、家はいっぺんに倒れてしまい、そのこわれ方はひどいものとなりました(ルカ6:47~49)。」

イエスキリストが弟子たちと聴衆に教えた、有名な一節です。
それはすなわち、「従う振りをしながら、わたしが教えたことばを守らない人は、嵐(試練の時)が来たときに耐えられない」ということであり。
「わたしのことばを聞いて、それを行なう人は、人生の障害に遭っても揺るがされない」ということです。

私たちは、主イエスを優先順位の第一に、しっかりと据えているでしょうか。
それとも、「神さま、あなたの言ってることは分かります。でも…。」「神さま、あなたを信じます。でも、ちょっと待ってください…。」「神さま、この仕事が終わって/もう少し資産に余裕ができて/子どもが大学を出てから、何でもしますから…。」と、すべきことを先延ばしにしてしまってはいませんか。

私たちの多くが、主イエスが提供してくれる恵みを受けて、喜んでいます。
同時に、主があなたに求めていることは、拒絶しながら。

<言うことは言うが、しない>
「Oxymoron(オキシモロン。矛盾語法)」という言葉があります。ウエブスター辞書によると、「正反対の意味を持つ言葉の組み合わせ」と言うことです。…余計混乱しました?

例を挙げると、「冷酷なる親切」「知的なおバカ」今風なら「キモエロカッコかわいい」ということでしょうか。コメディの場か、よっぽど皮肉な方があてつけに吐くセリフ以外に、あまり居場所のない言葉です。

しかし、主の前にあって、私たちが何度、「Oxymoron」なことを繰り返したのか。
「主よ、あんた最高だ!だけど…。」「私、あなたのお陰で生まれ変わりました!でも…。」
お金が。仕事が。家庭が。趣味が。パチスロが。子どもが。智美が。Wiiが。飲み会が。

じゃあ「主よ、主よ」と言うのは、言葉だけ…?行動が伴わない、空気の振動だけ…?

<あなたは信頼されて、役割を与えられた>
そんな挙動不審なOxym言動をしながら、私たちは「神さま、祝福してください!」「健康にしてください!」「昇給待ってます!」と願うのです。

神さまは心優しく、憐れみ深い方ですから、そんな「Oxymoron」な私たちにも、恵みを施してくれています。
しかし、時に障害が来て、「川の水が押し寄せる」と。
「Oxymoron」な信仰は、押し流される家のように崩壊し、跡形もなく消え去ってしまうのです。

<なぜ私たちがこの地上にいるのか>
私たちが「自分だけ救われて、天国に行ければOK!!」と思っていて、神さまがそれに同意しているのなら。
あなたは今この瞬間にも、天の軍勢に取り上げられて、天国にいるでしょう。
なぜなら、神の福音、すなわち主イエスの死と復活を信じ、主を救い主と告白すれば、あなたは天国へいけるのですから。

しかし、現実にはまだ、そんなことは起きていません。なぜでしょうか。

それは、神さまがあなたをこの地上に残している、目的があるからです。
あなたにしか果たせない役割り。あなたにしか触れられない魂。あなたにしか救えない羊の群れ。
それらを満たすように、神さまはあなたに期待して、この地上に残してくださっているのです。

だから、私たちは①神さまを優先順位の第一に定め、②そのことばに従って③行動しようではありませんか。
主に与えられた役割りが何であるかは、人それぞれです。
しかし、私たちは誰しも、その人生目標を達成すべく努力する必要があるからです。

信じていることを、行ないましょう。
そうすれば「不惑」。どんなものにも、揺るがされることはないのです。

いつも応援感謝しています。
あなたのひとポチで、より多くの方が導かれ
愛と平安を見いだすことができますように。
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レースは、いかに走りきるか
2007-05-29 Tue 16:10
5月25日(金)のハンバントタ事務所、中間ミーティングで。遂に残り一ヵ月となった津波被災者支援事業の現地スタッフたちに向かい、こんな話をしました。

「今日は、皆さんにとって特別な日です。そんな特別な日に、時間を割いて集まってくれてありがとうございます。
だって、今日はマヒンダ大統領(スリランカ現大統領)がハンバントタ県を訪問する日でしょう?しかも彼は、他の過去の大統領と違い、ここハンバントタの地元出身者。あなた方にとっては身内であり、兄弟のような方ですから。」

「さて、今日は少し、お話させていただきたいと思います。テーマは、
『レースは、いかに走り始めるかではない。
レースは、いかに走りきるかだ。』ということです。

2002年、東京でフルマラソンのレースが催されました。そこに、会社員で関さんという方が、出走していました。

関さんは日々の忙しい業務の中、週末を利用して練習しました。100%とは決して言えない仕上がりでしたが、レース用の靴に履き替えて、スタート地点に立ったのです。
『位置について。ヨーイ、バン!』と鉄砲の音も高らかに、各選手走り始めます。関さんも走って、走って、走って、走りました(42.195kmは、やはり言葉にしても、長いですね…。)

さてレースも終盤、ゴールまであと2kmほどの地点に差し掛かったとき。関さんはもう疲れ果てていました。足は痛み、腕はしびれて感覚がありません。呼吸も既に苦しいのを通り越していました。
そんな時です。彼が前方100mtぐらいのところに、先行するランナーを見つけたのは。

そこで関さんは、自分に言い聞かせました。『どうせだったら、ゴールまでにあの選手を抜いてみよう。』
そう決めると彼は、顔を上げ、しびれた腕を更に大きく振り、ストライド(歩幅)を今残っている力でできる限り伸ばして、走り始めました。
そして、最終的に。ゴールを切るまでに関さんは、先行していた選手を追い越して。
それによって順位が、47位から46位に、上がったのです。

あなたがたのうちで『それがどうしたの?』『46位と47位じゃ、あんまり変わんないじゃん。』と言う方もあるかもしれません。もちろんTV局が『関さん、46位入賞、おめでとうございます!今のお気持ちは?』と彼の元に来たわけではありませんし、東京陸連が彼の努力を認めて賞賛したわけでもありません。

しかし、そんなものより遥かに大事なのは、彼の姿勢です。
最後まで音を上げない。
最後まで諦めない。
最後まで妥協しない。

こうした姿勢は彼の、その後の人生の中で。職場でも、家庭でも、趣味でも、必ず役に立つ物です。


そして今。あなたたちは、この『最後の2km地点』に差し掛かりました。
もちろん、『もう最後なんだし、気楽に行こうや』『今更何したって、大勢に影響は無いし』『毎日言われたことだけやってりゃいいよ』という選択も、あなたたちにはあります。
もしくは、例に挙げたランナーの姿勢に見習って、最後の2kmを全力で走りきる選択も、できるのです。

レースは、いかに走り始めるかではありません。
レースは、いかに走りきるかです。

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呼吸すんの忘れないでね
2007-05-28 Mon 18:00
日本の昔のドラマで。

女性新入社員が先輩から、色々とOJTでレクチャーを受けています。懸命にノートを取り、一心不乱に先輩の後についていく彼女。先輩が行く先、どこにでもついていくので、男子トイレにまで入りそうになって「女の子用はあっちだから…」と諭される始末。

そんな彼女が先輩からPCの使用法について聞きます。緊張しまくっている彼女に、先輩が一言。「…ああ、それと呼吸すんの忘れないでね。」そこでハッとして深呼吸する彼女…。

そう、多分に誇張されたコメディです。

でも、私たちにも同じことが言えるかもしれません。
そう、私たちが書籍や、ブログや、映画を観たり、教会でのお話を聞いているとき。

もし神さまがあなたに語りかけているのかな、と思ったのなら。
心を堅くしないで、聞いてみてください。

実に、「心を開いて聞くのを忘れないでね。」と言われ、そこでハッとしてガードを下げる私たち…。
ということは、良くあることだからです。

誰もが分かっていることですが、時に忘れてしまうこと。
それを話す側も、聞く側も、常に思い起こしながら。神さまに学んでいこうではありませんか。

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ペンテコストの日
2007-05-27 Sun 20:36
イエスが復活を遂げられた後、天に帰る日が来ました。その時主は弟子たちに、「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。」と言われました。

遂に、主が天にあげられるときが来て、弟子たちは途方にくれるところでした。そもそも田舎の漁民であったペテロやゼベダイの子らは、当時の大都会であるエルサレムでの生活が、それほど好きであったとは思えません。また、キリストの弟子たちに対する迫害も根強くあり、生命の危険すらあったでしょう。弟子たちにからみれば「用が済んだらすぐにでも、故郷のカペナウムに戻りたい」と希望していたかもしれませんね。

それを「ここで待ってなさい」と言われて。そしてキリストは行ってしまわれた…。
主は「待ちなさい」と言ったが、一体それがいつ、どんな形で来るのか、誰にも分かりません。そんな先の見えない不安と、混乱の中にペテロら弟子たちはあったのです。


それに比べ、私たちの状況は、一体どうでしょうか。主の道に歩む私たちが、同じように悩み、「その場足踏み状態」で欲求不満に陥ることはないでしょうか。

「主よ、いつまでですか」「どのように明らかにされるのですか」「しるしをくださいませんか…」
主よ、私には分かりません。不安です。混乱しています。何か確かな、信じられる「確証」をください…。

もしあなたが、主の御名によって行なう事業の中で、そのようにフラストレーションを感じているとしたら。

私は言います。「あなたは幸いです」と。

次に何が起こるのか。次に何をすべきなのか。次にどこへ行くべきか。
私たちは、自分の行く道に想いを馳せます。

「しかし、私たちの歩みを確かにするものは、主である(箴言16:9
)。」という言葉の通り。思いがけない方向から、思いがけない人から、思いがけない理由で持って、神さまは救いの手を出してくださるのも、私たちが信じていることです。

ですから、主のことばを守り、エルサレムにいるべき時はエルサレムに、カイザリヤに呼ばれればカイザリヤに、ローマであればローマに…。主に聞いて、主の道を守って、一歩一歩進んでいきましょう。

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病人に手を置けば癒される
2007-05-27 Sun 20:15
スリランカはコロンボの郊外、People's Churchで。今日はビジターであるデヌワン牧師が、まだ若かったころ病院であった経験を話してくれました。

幼い女の子が危篤で、状態が思わしくないのを、彼は離れたところから見ていました。そして、神さまに祈りました。「彼女を癒して、健康にしてあげてください。」

そして、こう思ったのです。「もしこの祈りが効いて、あの子が直ったら、両親の元に出て行って『私の祈りは聞かれた!ハレルヤ!』と言おう。」

しかし、その子はぜんぜん良くなりませんでした。

そこで彼は、神さまの声を聞いたのです。「私の癒しは、あなたを通して発揮される。しかし、あなた自身が信じて行動し、彼らの前で証しなければ駄目だよ。」と。


別の機会で。長く入退院を繰り返していた老婆と、その家族に行き会った牧師。彼はその時、決意半分・不安半分で、彼女の癒しを祈りました。

しかし、残念なニュースです。そのおばあちゃんは次の日、死んでしまいました…!
でも、彼女の家族はみんな、喜んだのです。

どうして?
おばあちゃんはそんなに嫌な人で、身内から嫌われてたの?
それとも保険金・遺産目当て?

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神さまの仕事
2007-05-27 Sun 18:44
神さまの仕事をするために、私は人道支援の業界に入りました。戦災や自然災害で住む場所を失い、困っている人を助け、自立に最低限必要な物資を供与し、精神的なショックにある人々を励ますこと。

それはマタイ25:34~にあるように、「あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べるものを与え、わたしが乾いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、
わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしを訪ねてくれたからです。」というメッセージに、行ないで従おうと思った結果です。

しかし、それは一部正しくあり、また一部誤った解でもありました。

なぜなら、NGOの仕事は「限られた資源を効率よく配分し」「できる限り多くの人の自立再建を助ける」ことに主眼が置かれています。反面、神さまの仕事は「すでに救われている大多数よりも」「迷い出た一人を救うため」と言えないでしょうか。

<家を建てるものたちの捨てた石>
例をあげましょう。コロンボ郊外、麻薬中毒患者のリハビリ施設である「パワーハウス」に、19度目の収容という不名誉な記録を引っさげて、強者が再入所してきました。ジュードという名の、まだほんの27歳の若者です。入退院を繰り返し、時に脱走し、時にニールセン牧師を襲い、金品を奪おうとしたこと(未遂に終わる。「牧師なら反撃して来ないと思った」とのこと…)もあります。しばらくの入所生活の後、改心するのですが、外に出ると再び誘惑に負けて、麻薬の虜になってしまう。その繰り返しでした。

しかし妻が教えるPCの教室に、両足を鎖につながれたまま(逃走防止のため)、ジュードが参加してきた時のこと。PCを使うのが恐らく初めてにもかかわらず、フォトショップを使う彼の色彩感覚とデザインのセンスは、妻の関心を惹きました。

「きっと、神さまがあなたに与えてくれたギフトね。それを大切にして」という妻を、不思議そうな目で見返す青年。そんな彼は今、妻が与えた日記帳に毎日「神さまへの祈り」をつけています。
外部の人間から見れば、どうしようもない負け犬。救いようのない失敗作。実の家族すら見捨てて、縁を切った「身内の汚点。」

そんな彼にも、「神さまの与えてくれた役割り」がきっとある。私たちはそう信じています。遥か遠く迷い出て、「お前の人生もう終わってるよ」と社会があきらめ、立ち去る中。主イエスキリストは、彼のためだけに、その救いの手を差し伸べてくれたのです。

それは私にも、そしてあなたにも、同様に差し伸べられている「希望」です。そう、主は迷い出た一匹の羊のために、ご自分のいのちをすら、与えてくださいました。
それは、その代償によって贖われた私たち一人ひとりが、改心して主イエスの道に歩むためでした。

それが、「ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられる(IIペテロ3:9)」という神さまの、御心にかなった仕事のように思います。

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MY will be done on earth as in heaven
2007-05-26 Sat 18:44
「天にいます私たちの父よ。
ごとうの名があがめられますように。
ごとうの国が来ますように。
ごとうの意思が天で行われるように地でも行われますように。<中略>
国と力と栄えは、とこしえにごとうのものだからです。アーメン。」

「あれ?何か違くね?」と思った方、正解です。
「ごとう」の代わりに、「父なる神さま」の御名、御国、みこころが成されるように。そういう祈りだったはず。


しかし、ごとうも含めて、私たちのうち一体何人が、上記のような願望(妄想?)を抱いて、今日、この世界で生きていることでしょう。


もちろん私たちは神ではありませんから、ごとうの国は来ないのです。(ごとうの国…。ちょっといいな。)ごとうの意思はあんまり行われないのです。それ故、ごとうの名はあがめられるどころか、ほとんど無視されてます。

しかし、そんな儚い望みを捨てきれずに、富をなして「ごとう記念館」を建ててみたり、ごとうの銅像を作って会社の入り口に立てたり、ごとう自分史をプロジェクトX風に出版してみたり…。自分が例え死んだ後でも、人々に記憶されたいと望む…。それもまた、人間なのです。


しかし主イエスキリストはこう言っています。
「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。
あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい(マタイ20:26~27)。」と。

だから、主が弟子たちに「神に対してどのように祈るか」を教えた通りに。
私たちは自分の謙虚な生き方を持って、神さまのことばに従いましょう。

『天にいます私たちの父よ。
御名があがめられますように。
御国が来ますように。
みこころが天で行われるように地でも行われますように。
私たちの日ごとの糧を今日もお与えください。
私たちの負い目をお赦しください。
私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦しました。
私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。
国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン(マタイ6:9~13)。』

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私は信じた。それゆえに語ったII
2007-05-26 Sat 18:40
前回からの続き。

神さまはあなたのそばに>
神さまは他人行儀な方ではありません。私たちから遠く離れ、はるか高所から罪にまみれた俗世間を見下し、「私が聖なる存在なんだから、あんたら被造物も聖なる存在になんなきゃダメ」という押し付けの神々でもありません。

彼自身、人間としてこの世界に降り立って、人として、人に迷い、人として、人に傷つきました。人としての喜怒哀楽をすべて味わい、肉体の耐えられる限界の痛みに耐えて、ついにその命を十字架の死に明け渡しました。今から約2000年前の、ゴルゴタの丘で。
彼は生前、癒しの奇跡と共に、たくさんの「幸せに生きるノウハウ」を、私たちに残していってくれました。

それは、「あなたを愛してくれている神について知り、愛しなさい。」ということ。そして、
「あなたの隣人を愛しなさい。」「自分にしてもらいたいと望むとおり、人にもそのようにしなさい。」ということです。
聞いたことある?使い古されたことわざ?現代の競争社会では、役に立たない理想論?

いいえ。この荒んだ現代社会だからこそ。この主イエスのシンプルな、しかしパワフルなことばが必要なのです。

誰もがMe 1st、「私に注目!」「私を尊敬して!」「理解して!」「求めて!」「愛して!」くれなきゃヤダ!!と叫んでいる中で。
私たちのために死んでくれた主は、まず「与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。」と言うのです。

注目されたければ、まず他人に注目しよう。尊敬されたければ、まず他人を尊敬できるよう、彼のしていることをよく観察して、長所を認めよう。理解されたければ、まず相手の話を聞いて、理解しよう。求められたければまず求め、愛されたければまず愛そう、と。

それはすなわち、「自分の人生を、より幸せに、満たされて生きる」ための、最高の処方箋です。

<「与える」ということ>
「与える」という行為が、優しい言葉や励まし、アドバイス、支える手の場合もあります。お金や物の場合もあります。しかし、今日はその内でもっとも簡単で、誰にでもできて、しかも強力なものを、皆さんと共有したいと思います。

それは「祈り」です。

まずは簡単な例として、皆さんの肉親や、友人から始めてみましょうか。皆さん、目を閉じてください。

例えば、山形のおばあちゃん。もう2年も会ってないわ…。元気にしてるかしら。
海外でがんばっている妹。
病気で入院した広島のおじさん。
仕事で帰りが午前2時の、お父さん。
クラスで仲間はずれの綾ちゃん。
抗がん剤治療に苦しんでいる、元同僚の菊池さん。
糖尿病で週2回、人工透析を受けなければいけない、義理の兄さん。
過去に、知らずに傷つけてしまった、友人たち。

言葉に出さずとも結構です。彼らの顔を思い浮かべて、彼らの健康と、幸せと、こころの平安を、神さまに祈りましょう。わだかまりがあって、まだ謝っていないのなら、いま、神さまに告白して謝ってしまいましょう。
決まったせりふなんぞありません。あなたの言葉で、神さまにお願いしてみてください。


<あなたの祈りは聞かれている>
祈り終えて。
どう感じましたか?彼らの微笑む顔が、見えましたか?
あなたの肩から、少しだけ、力が抜けましたか?
あなたの心に、少しだけ、安らぎが来ましたか?

もしそうだとしたら。
あなたの祈りは今、確かに、神さまに聞かれました。
そして同時に、あなたは今、確かに、神さまの手に触れられたのです。

こうした心の平安と幸せで、私たちを満たしてくれる方、主イエスキリスト
彼が、あなたが望みさえすれば、これから先の人生を、あなたと一緒に歩んでくださいます。
どんなに厳しい状況で、光が見えない中でも。
彼が必ず一緒にいて、あなたを支えてくれます。

<人生の転機…。次はあなたの番です。>
そんな主イエスキリストを、自分だけの救い主として認め、受け入れたい。
自分が一体何者で、何をなす為にこの世界に生まれたのか、知りたい。
主にあって、これから先の人生を、もっと幸せに、満たされて、生きてみたい。

そう思った方。あなたがたのためにお祈りしたいので、手を上げてください。
もし手を上げるのが恥ずかしかったら、顔を天に向けて、自分の心の手を、天にさし伸ばしてください。

あなたの為に、お祈りします。

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私は信じた。それゆえに語った
2007-05-26 Sat 18:36
皆さんも感じていると思います。この世の儚さ。自分が信じている物の頼りなさを…。
一体最後に何が残るでしょう。
資産?生命保険?家庭?健康?仕事?趣味?株券?友人?経験?学歴?名声?
自分自身?

今はいい。今は満足。今は幸せ。今は絶好調。

しかし、障害は来ます。人生の嵐は、旧友が上京してくるように、ある朝ひょっこりとやって来ます。

そんな嵐に耐えられるでしょうか。富が。その場限りの快楽が。時間潰しが。「通じあえた」と直感しても、次の日に裏切られる人間関係が。履歴書上の記述が。3日間ベッドに寝ただけで、失われる肉体感覚が。

「何にだってなれる」「やればできる」「さすが俺」「私イカス」と信じていても、社会の荒波に揉まれ、障害にぶつかるたびに砕かれ、小さく丸くなっていく、自分と言う原石が。

最後まで信じるに足る物として、私たちには一体何が、残されているでしょうか。


そこで、信じられる物として、神さま登場!
という、シンプルな話では、残念ながらありません。
なぜなら、神さまとの出会いは個人的なものなので、人によって全く違うからです。いつ、どんな現れ方をされるか。どういう伝え方で、あなたに語りかけるか、誰にも分からないからです。そして、あなたがそれを受け取るか否かも…。

しかし、これだけは言えると思います。神さまは、あなただけのとっておきの方法で、今もあなたに働きかけてくださっている、と。だから心を開いて、神さまの声を聞いてみてください。

<ごとうの場合>
私の場合は、自分の無力さ加減を嘆いて、神さまに助けを求めた時から、主イエスとのお付き合いが始まりました。サニーさんというアフリカ人の友人の一人が、2004年11月に脳卒中で倒れられた時。頭蓋骨を切開し、血栓を取り除く大掛かりな手術のあと、サニーさんは病院のベッドに半ば拘束されていました。

私たちが訪ねると、気配を察したのか立ち上がって迎えようとすらします。しかし絶対安静なので、両腕をベッドに拘束された状態で、動こうと足掻くのが精一杯でした。元気な彼を知っている私たちとしては、とてもショックな光景だったのです。BB牧師ら他の人が手を差し延べ、祈る中、私はなぜか彼の足を握って、祈っていました。

その3日後。会社帰りの晩、草加神召教会にフラッと立ち寄った私は、1時間ほど彼の癒しのために祈りました。そして彼の状態に対して何もできない自分の無力さ、人生の無常さの前にただ立ちすくむ自分を嘆いて、神さまに彼の100%復帰を願ったのです。(そして、その祈りは1年、2年という時をかけて、確かに叶えられました。)

またその約2週間後、仕事でロスに出張時、「上空1万メートルなら天国に近いかも」という安直な考えから、神さまに祈りました。スチュワーデスが「Beef or Fish?」と聞いてくるのを無視して、祈り倒した結果、その時与えられた言葉は、今でも私の宝物になっています。

<神さまの三原則(ごとうの私見)>
それは、シンプルな3つのことばでした。
それは、「神さまは存在する」「神さまはあなたを知っている」「神さまはあなたを愛している」と言うことです。聖書から、また牧師や教師から、他にもたくさんの事を学びました。しかし、これ以上に価値あることばは、私には未だ明かされていません。

1.「神さまは存在する」
あなたは神さまの存在を、感じたことはありますか。この天地を創った方。惑星を理路整然と周回させ、地球に生命の恩恵を与え、人間をその管理代行人として任命し、食べ物や家など、素晴らしいもので満たしてくださる方。名前はいろいろ、呼ぶのに困った人間がつけました。でも、究極的には一個の「神さま。」知っていようといまいと。信じようと信じまいと。実は、あなたも気付かないうちに、神さまに出会っているのです。

四季の流れを美しいと感じられる方は、神さまの存在を認めている人です。春の芽生え、草木の成長、生命を支える雨、太陽がいっぱいの夏、砕ける海の波頭、食材に満たされる豊かな秋、落葉、そして静けさの中に降る雪。そんな大自然を創造し、運行しているのは、神さまなのですから。

子犬・子猫など動物を愛する方は、神さまの創造を喜んでいる人です。他の被造物に対して愛情を抱くのは、神が創られた作品を愛していると認めることなのですから。

科学を勉強している方は、神さまの手のわざを身近に感じている人です。人の知識で説明できないことが、この世にはたくさんある。その真実に、既に気づいているのですから。

子供が道路で遊んでいて、車が近づいてくるのを見て「危ない」と思う方。また怪我をした人を見て、「可哀想」と思う方は、神の愛を知っています。人を助けたいと思うこころ、他者への思いやりと優しさに溢れているのですから。

どうです?あなたにも、思い当たることがありましたか?

2.「神さまはあなたを知っている」
そう、天地創造の神さまは、あなたのお母さんより、あなたのことをよく知っています。あなたが今日何時に起きて、布団もたたまずに、朝飯も抜きで出てきたことも。寝癖頭で、鏡の前でニカッと笑ったことも。
あなたがたった独り、幸せな群衆の中を、急ぎ足で歩いた晩も。彼氏とケンカになり、泣いて、憎んで、受信拒否したことも。電車の中で流した涙も。ひとり帰り道に飲んだビールも。あなたの悲しみも、孤独も、克己も、善も悪も。そしてこれからあなたがどう変わっていくのかも。神さまは全てご存知です。

3.「神さまはあなたを愛している」
あなたのきれいどころも汚点も、ついてしまった小さな嘘も、傷つけた心も。全てを理解した上で、神さまは「わたしの目に、あなたは高価で尊い。
わたしはあなたを愛している。」
と言ってくださるのです。

そして、そのことばを空約束でなく、真理として。神さまご自身のことばを裏付けるために。
ご自分の一人子である、主イエスキリストを十字架につけて。私たちのうち幾人かでも救うために、そのきよい血を流されたのです。

<IIに続く>

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いつまで続くのでしょう
2007-05-23 Wed 22:41
いつまで続くのでしょう。

いつまで続けられるのでしょう。

酒…。ゲーム…。テレビ…。マンガ…。吉本興業…。ギャンブル…。
精神と肉体をすり減らす仕事…。他人の犠牲の上に成り立つ報酬…。
不毛な肉体関係…。最も愛していた人への隠し事…。言い訳…。憤り…。
弱者に対するいじめや、差別…。他人を押し下げて、優越感にひたること…。

これらのことが、一体いつまで、私たちを幸福にしてくれるでしょうか。

また、これらが、どれだけ頼りになるでしょうか。

私たちが病気になったときに。
挫折したときに。
愛する人を失ったときに。

この世のものが、私たちを再び幸せにしてくれるでしょうか。
暗やみに光をかざし、倒れた私たちを立ち上がらせてくれるでしょうか…。


一時的なハイ。一時的な笑い。一時的な息抜き。一時的な優越感。一時的な楽しみ。
残念ながらこれらの物では、これから来るあなたの人生の嵐に、耐えることはできません。

私たちは、本物の確証を選び取らなければなりません。
大海の暴風に耐える、時代を経た岩に、その錨をしっかりと結び付けなければ。
吹き流され、さまよい、座礁して沈むだけです。

そんなものが、はたして存在するんでしょうか?


私も長い迷走の旅を続けていました。だから、あなたと想いを共有することができると思います。頼りないキャリアや、賞与や、学歴や、海外経験や、人間関係といったものに翻弄されながら、右に左にさまよいました。どこまで行くのか。どこに向かうべきなのか。出口の見えない迷路で、ひざを抱えていました。

そんな時、私の苦しみと葛藤を理解して、愛と赦しと肯定を説いてくれる方に会いました。
その方は自分も人間として、喜怒哀楽の全てを味わいました。しかし最期には、人間に傷つき、苦しみ、嘲られ、さげすまれて、一番の親友たちにも見捨てられました。そして、激痛の中で死んでいきました。

私だったら背を向けて。私だったら憤慨して。私だったら運命を呪って。

世を滅ぼせるものなら、道連れに滅ぼしたでしょうに。
彼はそんな世に、罪の赦しと愛を説いて、私の涙をぬぐってくれたのです。


私たちの呼吸が、心音が、目に見える世界が、確かに存在するように。
イエスは、確かに存在します。

あなたの気付きを忍耐強く待って、いつでもその手を差し延べてくださっています。
だから、主に信頼して、その手をとりましょう。

あなたの錨を、神さまと常時接続しましょう。

救いの手


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It’s show time!
2007-05-22 Tue 20:01
5月中旬、ハンバントタで劇団や民族舞踊が集う「Theater of the People」というイベントがありました。これはスリランカ教育省が中心となって①演出家、舞踊・楽曲のコーチらを3ヶ月程県内に派遣、②現地呼集したアマチュア参加者たちと共に催し物を創りあげ、③告知、舞台設置、そして④その終わりの2週間で実際に公演するというものです。内容はシンハラ・タミル・ムスリムの伝統舞踊や魔除・健康祈願のコメディ劇、創作ドラマなど混成で、参加者の年齢や性別、民族的背景もバラエティに富んでいます。

中でも、ネズミ・猫・犬がフルーツケーキを奪い合う滑稽な劇(ネズミ(貧民)と猫(強盗)は交渉したり競争したりと、取り分について揉めますが、その事態収拾に呼んでしまった犬(警察?)においしいところ全部持っていかれる)や、「どうしたら天国にいけるか」という普遍的テーマが、現代的に「どうしたらイタリア(=彼らにとって天国みたいです)へ移民できるか」という話にすり替えられて、伊に不法入国を図る村民たちが結局逮捕される話など、多分に創造的。

<「ハンデ」を「武器」に>
なかでも役者の一人で、身長120cmくらいの女性がいたのですが、その可愛らしいこと。小ネズミとして駆け回り、また暴力的な妻として、イタリアに一人移民しようとする旦那を振り回したときは、会場大爆笑でした。

普段の生活では、成人女性として身長120cmというのは身体的「障害」でしょう。それによって苛められたり、辛い目に遭ったことも少なくないはず。しかし舞台の上の彼女は、その「ハンディキャップ」を逆に利点として、彼女にしかできない役作り、演技をしていました。

笑いと喜びで、観客と参加者が一体となった舞台。彼らはその豊かな表現を通じて、民族紛争にゆれるここスリランカに「再び民族の融和と共存を」という、力強いメッセージを発してたのです。

ねずみとねこといぬ


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ああッそのつぼの油は
2007-05-21 Mon 23:54
教会のシスターが、その地区で老人宅の家庭訪問をしていました。道中、ガソリンが切れてしまいましたが、道路のすぐ先にガススタンドが見えます。シスターはそこでガソリン用の缶を借りて、車がスタンドまで走れるだけのガソリンを、まず買おうと思いました。

しかしサービスマンは残念そうに「すみません、ガソリン缶は貸し出し中でして…。でもすぐ戻るはずですよ」とのこと。

車までの距離も近かったので、シスターは何か、ガソリンを入れられる容器を探しに行きます。すると、患者さんからもらった小さな古いつぼが、目に飛び込んできました。その口はちょうど水差しのようにすぼまっており、タンクへの給油もやり易そうです。

そこでシスター、そのつぼに少量のガソリンを入れてもらい、車に戻ると、早速給油し始めました。
すると、そのすぐそばを歩いていた二人組みの内一人が、シスターを見て、こう叫びました。

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<聖書、この偉大なる本>
2007-05-19 Sat 18:40
聖書についての記述は、色々あります。地上最古の文献の一つで、一説によると今から約6,000年ほど前、創世記1~11が残され、筆者であるモーセが著すまで口伝で語り継がれてきました。現在2,000以上の言語に訳され、世界中のほぼどこででも手に入る書物。プロテスタントの場合、66の章(=個別の本)からなり、内前半39章は旧約聖書、後半27章は新約聖書と呼ばれます。

約40名の、時代背景も、職業・年齢も異なる筆者が書いたにもかかわらず、その主旨は統一されています。それは、筆者たちが「神の霊感により」「聖霊に動かされて」書いた物である、と言わしめるだけの、何か意図的なもの――偉大なるデザイン――を私たちに感じさせるのです。

その聖書全体に走る共通の主旨とは、つまりこういうことです。
「①人の起源、②罪の起源と、③人を神に立ち返らせるための、主の計画。」

<「Book of Life」は、「Book of lives」だった>
なぜこの66章だけが、聖書として認められたのか。他にも文献はたくさんあったはずなのに。
そして、編集の際、何を基準にこれらの章を選んだのか。

どちらも、良い質問です。聖書がどのように(少なくとも現在のような)形をとるようになったのか。それを説明するのに、少し当時の時代背景を見てみましょう。

1.旧約聖書
口伝で、あるいはパピルスや木片、石版などに記された聖書各章は、当時独立した「本(巻物)」として存在しました。書物という宝の価値は、印刷技術など皆無の当時を振り返れば、少しお分かりいただけると思います。つまり、書物を手に入れるには、①必要な写本媒体を用意し、②原本を何とかして見せてもらい、③全て手で書き写す必要があったのです。しかも媒体は、紙やノートと言った軽く、書きやすいものではありません。植物の繊維質バリバリの媒体に、一字一字刻み込んでいきました。詩篇など写本したら、恐らくパピルスがスーツケース一杯、木片であれば一山、石版であれば神殿を囲むほどに、なったに違いありません。

そう。引越しの際「本をどうしようか」悩むのは、現代人だけではなかったのです。

<厳しい時代背景>
預言者イザヤの時代辺りから、イスラエルの歴史が激震する事件が相次いで起こりました。
つまり、アッシリヤ帝国の北部侵攻(722BC)、またバビロニアの支配(586BC)に続く、ペルシア帝国の隆盛(539BC)です。

戦争に敗れ、被支配民となったイスラエル人たちは、支配者の意向に振り回されます。戦闘や飢餓などによる死を免れた人びとも、虜囚として異郷に引っ立てられて行きました。
もちろん奴隷として連れて行かれるわけですから、運べるものなど多寡が知れています。隠すにしても、場所も時間も限られています…。それが書物となれば、保存状態も確保されなければなりません。

この貴重な文書を、彼らの歴史と知恵の集積を、後世に伝えるために。もし複数の書があったとして、あなたなら、どれを最優先に持参・保存するでしょうか。

そう考えると、奇しくも「敵国の侵略」と言うフィルターにかかって、洗練された書物のみが。あるいは捕虜の一行と共に国外に持ち出され、あるいは屋敷の地下深くに埋蔵されたのでしょう。
最終的に親イスラエルのペルシア王、クロスがイスラエル人の解放を告げ、エルサレムの再建を約束した後。
エルサレムに集まった4万2千名ほどの生存者と、その中にあった祭司エズラ、指導者ネヘミヤ、ゼルバベルらが中心となって「聖書編集・保存委員会」を設立し、長い難民生活の時代を乗り越えて、残されてきた文献が集められ、ここに「旧約聖書」としてまとめられたのです。

2.新約聖書
新約聖書の時代はまた、キリスト教徒弾圧の時代でもありました。サウロ(後のパウロ)は、この新興宗教をけしからんと言って、教会を荒らし、男も女も引きずり出して投獄しました。そしてエルサレムからシリアのダマスカスまで「キリスト教徒捕縛の旅」を敢行。こうした目に余る迫害によって、祖国を追われた人々は、遠くフェニキヤ(現レバノン)、キプロス島やアンテオケ(現シリア)までも逃避行を続けました。

パウロが処刑されて間もなく、皇帝ネロは「ローマの大火(64AD)」の責任をキリスト教徒に負わせました。また皇帝ティトゥスの時代には、エルサレムが破壊され、約150万人のユダヤ人が殺害されました…。その後、ローマ皇帝デキウス(250AD)、ディオクレスの時代(300AD)にも、キリスト教の弾圧が再燃しました。

厳しい管理下にあったローマ帝国領。当時のその版図と、影響力を見れば、徒歩でどこへ逃げても選択肢はないように思われます。このため多くのキリスト教徒は、人民の中に身を隠しました。隣人が互いに監視し、密告でもあればすぐさまローマ兵に審問され、徹底した家屋の調査が行なわれていた時代です。そして、キリスト教徒のアイデンティティが明らかになれば、容赦ない鞭打ち、その後断頭刑や、コロッセオで飢えた猛獣の餌食にされるなど、残酷な極刑が待っていました。

こうした弾圧の時代には、焚書も実施され、公的なキリスト教関連の書籍は全て焼かれました。そして多くの補助的な書が、従順を装う隠れキリスト教徒たちによって、火に投げ込まれたのです。しかし、厳選された章節は隠され、頑なに保存されました。

こうして、新約聖書もまた、迫害のフィルターを通して、洗練され。その結晶化した核が残ったのでした。

<時代のテストを経て>
今日私たちが書店などで、気軽に購入できる聖書は。
このように、試練に満ちた歴史の波をくぐり抜けて、私たちに伝えられたのです。

そう、いうなればこれは、「Book of Life(いのちの書)」であると同時に。
多くの人々が、命がけで守った書、「Book of lives(命を賭けた書)」なのです。
それはすなわち、単なる紙やパピルスではなく。その根底に流れる「アイディア」が、時を越えて残り、私たちに語り継がれるためでした。

それは、もはや単なる人間の「栄誉」や「欲望」や「意思」や「損得」を遥かに超えて。
まさに、「神が成せるわざ」といって過言ではないのではないでしょうか。

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<ああ、教授>
2007-05-19 Sat 18:34
日本の新聞を読んでいた時のことです。こんな記事がありました。

大学の教授が授業を終えて、生徒からこう訊かれました。
「こんなこと勉強して、意味あんですか。」
=つまり、「なぜ」勉強するのか。

その先生の記事の後半は、残念ながら、生徒に対する憤慨と、最近の若者のヤル気ない態度に対する警鐘の、オンパレードでした。


でも教授、あなたは授業のDay1から、自分の頭の知識のコピーを押し付けるだけで、「なぜ」この学問が有益なのか。「なぜ」この学問を学ぶ意義も、価値もあるのだということを、教えなかったんですか。

「なぜ」というのは生徒が聞ける質問の中で、最高のものです。
「私(生徒)たちのこれから長い人生の中で、あなた(教授)の持っている知識がどう役に立つのか。」というのは、「単位を取る」以上のことを望んでいる生徒の誰もが、知りたがることではないでしょうか。

先生の教える「枝葉末節」ではなく、その学問の「根幹」を知ろうとする、真摯な質問ではないでしょうか。

それを説明せぬまま、ただ盲目に全力疾走して。生徒たちがついて来ているのかいないのかも確認しなければ。
生徒が「?」なのも頷けます。

その事実に対して憤慨するなど、自分で「私は無能な講師です」と宣言しているようなものではありませんか。

ただ先生の話を聞いて、ノートを取るだけの生徒に、慣れてしまっていませんか。
(その言い方はともあれ)マンネリズムを崩すヒント、更なる成長へのヒントをくれた勇気ある生徒に、感謝するべきだったかもしれません。

神さまは予想外のソースから、現状打破・更なる高みへのヒントをくれることも多いのです。
それを謙虚に、感謝して受け取るか。つばを吐いて当り散らすか。そこで先生の、教師として、また人間としての成長の限界が、決まってしまうのではないでしょうか。

いつも応援感謝しています。
あなたのひとポチで、より多くの方が導かれ
愛と平安を見いだすことができますように。
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<信仰の祈りVer.2>
2007-05-18 Fri 21:57
もし「神さま、信じてもいいですか…」と思ったら。
次のお祈りを、言葉に出して言ってみてください。
私に続けて、言ってみてください。↓

ここをクリックして、「祈り」を聴く

「私の主、イエスキリスト

あなたは、生まれる前から私を知り、私がこれからどこへ行くのかも、知っています。
あなたは、私が今何を想っているのかも。私の行なった善も悪も、全てご存知です。
あなたは、私が何者でもないのに、私の名を呼びました。
あなたは、私の内から「この道を歩め」と、優しく導いてくれます。
あなたは、「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てない」と言ってくれました。

私は実際に、あなたを見たことも、声を直接聞いたことも、ありません。
しかし、あなたのことばに親しみ。あなたの慈しみを知り、あなたの犠牲の重さを知った今。
主よ。私は、あなたの愛を信じます。

あなたが私のために、死んでくれたから。
主よ。これから私は、あなたのためだけに生きます。


イエスよ。エゴもわがままも、見栄も欠点もあるけれど。
あなたはありのままの私を愛してくれました。
これまで迷って、遠回りし、過ちもたくさん犯しました。

しかし、暗闇でひざを抱えていた私を、あなたは明るい場所へといざなってくれました。
怖れや後悔、自責の念、不安といった鎖から、解き放ってくださいました。

だから私は、今後全てをあなたの御手にゆだねましょう。
私があなたの勇気と、潔さに学んで、「わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」ということができるように。私を力づけてください。

そして私の行ないを見て、あなたの愛と栄光を、世界が知るように。
私をあなたのお役に立たせてください。主よ、私を用いて下さい。
なぜなら今日、この日から、私はあなたのものだからです。

尊い主の御名によってお祈りします。
Amen。」

もしあなたが、上記の祈りの言葉を、一句一句声に出してみて。
読み終わったとき、えもいわれぬ安らかな気持ち、平安に包まれたのなら。

あなたは今、確かに神さまの手に触れられたのです。
今天界で、あなたのためだけに、大きな喜びの叫びが上がったのです。

<信仰の祈りVer.2>…の続きを読む
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<My Grace is sufficient for you>
2007-05-18 Fri 21:43
…しかし、主は「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私を覆うために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。
ですから、私はキリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです(IIコリント12:9~10)。

上記は、パウロさんが自分の負った棘(何かの病か、身体的障害でしょうか)について語った一説です。

「弱い」からこそ、「強い」。
逆説的な論理にて、あなたの目が「?」マークになるのが分かります。

強い人、賢い人、自信に溢れた人は、自分で何でもできる → 何でもしよう→何でもしなきゃ! → 何でも想った通りにならなきゃ!…という「完璧主義」――すなわち「神になりたい病」、「罪」――に陥ってしまうことが多いのです。「投資」「建築」「医療」…その道の専門家ともなれば、学歴・権威・技術用語・独特の言い回しをフル活用して、「自分がいかに優れているか」「自分にはこれを語る資格がある」「だからみんな黙って聞け」とアピールしなければなりません。だからこそ、素人さんに伝わる話し方ができる専門家の方って珍しいですよね。

そんな「自分は偉い」「自分最強」モードで突き進むと、いつか疲れてしまいます。どの業界でも、上には上がいるし、才能に溢れたライバルにその座を脅かされる。そして挙句、理想と現実の隔たりの前に、挫折してしまう。
「自分最高!」から「自分なんて…orz」という反動で、世界を斜めに見る・シニカルになる。つまり、心が冷めてしまう。「人生こんなモン」と、結論してしまう。
人はこうした人生の挫折を経て、「大人になるんだ」と言うかもしれません。でもそこで終わったら、ただため息と諦観が、あなたの感情のバラエティに加わっただけです。強いからこそ、折れ曲がってしまう。強いからこそ、元通りになるのが困難。

<弱さを認めること>
逆に、自分の限界を認めることは、多分に謙虚さが要求されることです。
しかし、自分の弱点を素直に認めて、真摯に「素人なのでよろしく」「迷惑かけたらごめんなさい」「教えてください」「助けてくれませんか」と求める人を、誰が無下に断れるでしょう。謙虚さは、自分一人の不足分を、多くの人材を活用することで補うための、重要項目です。

それが、上記で語られている<「弱い」からこそ、「強い」>パラドックスの、結論の一部なのではないでしょうか。

そしてまた、神さまは謙虚な人間に対して常にオープンです。
ダビデ王の子、ソロモンが即位した時、彼が神さまに願い出た言葉が、それを物語っていますね。

「わが神、主よ。今あなたは私の父ダビデに代わって、このしもべを王とされました。しかし、私は小さな子どもで、出入りするすべを知りません。
そのうえ、しもべは、あなたの選んだあなたの民の中におります。しかも、彼らはあまりに多くて、数えることも調べることもできないほど、おびただしい民です。
善悪を判断してあなたの民を裁くために聞き分ける心をしもべに与えてください。さもなければ、だれに、このおびただしいあなたの民をさばくことができるでしょうか(I列王3:7~)。」

「私ひとりでは無理です。」「教えてください。」「助けてください。」ソロモン王のこの謙虚な姿勢が、主の御心にかなって。ソロモンは神さまから、無双の知恵を与えられるのです。

『あなたがたのうちの一番偉大な者は、あなたがたに仕える人でなければなりません。
だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。』マタイ23:11~12

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<ハンバントタの牛たち>
2007-05-18 Fri 21:39
あの、澄んで落ち着いた、つぶらな瞳。
遠く、悲しい目をした、牛たち。

彼らには、この世界で起きている変化が
人間の造りだしてしまった、この世の危機が
確かに見えているような気がする。

それでも、家族をいたわり、子牛を守り、草を食み
あの青空の遠くを、ただ眺めている。

あの瞳は、生き急ぐ私たちを見て
どう想っているのだろうか。

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<神の箱入り娘たちへ>
2007-05-16 Wed 18:00
あなたは、自分の一番大切なものを、どこに隠しますか。
机の引き出し?鍵のかかるスーツケースの中?それとも、銀行の貸し金庫?

他人の目に付かないように。誰かに傷つけられたり、取られてしまわないように。
そっと、大切にしまっておくことでしょう。

今、病気や引きこもりで家にいて。「早く良くならなきゃ」という焦りや、周囲の批判や無理解で、苦しんでいるあなたへ。

あなたは、神さまが大切に思って、守ろうとしている宝物なのかもしれませんね…。


<なぜそう言えるのか>

なぜなら、あなたには他の、普通の生活を送っている人たちよりも。
さまざまなものが見え、さまざまな人の想いを感じられ。
人を信用して傷つくことも。また傷つけることも。痛みも。涙も。
この世の移ろいやすさも、空しさも知っているからです。


私たちは、この社会の中で、「普通」という仮面をかぶって。
内心「いつ自分という人間が、周囲にバレてしまうだろうか」とビクビクしながら、生きています。
人によっては世間から離れ。人によっては武装し。
人によってはあきらめて。人によっては自分を傷つけ、殺し。

あたかも世界の終わりが来たかのように、頭を抱えてうずくまってしまいます。

だから。あなたに見えている世界が、あなたの価値観が。
あなたの味わった苦しみが、孤独が、拒絶が。
それに耐えてなお、笑うことができる、あなたの強さが。

神さまにとって、どれほど尊い宝なのか。
私たちにとって、どれほど必要な物なのか。
理解して欲しいのです。


ですから、私たちに教えてください。
表に出て、私たちにあなたの宝を共有させてください。

あなたが以前いた場所に、今なお落ち込んで、苦しんでいる人たちに。
あなたの光をかざしてください。

そう。あなたの時はいつでも来ているのです。
勇気を出して、あなたの宝を輝かせてください。

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主の福音 第六章 第一節~第六節
2007-05-15 Tue 16:38
主の福音 <The Good News> 朗読

今日は第六章 第一節~第六節までを読みます。

(「主の福音」、また冊子については、主の福音 <はじめに>をご覧下さい。また「続きを読む」内にテキストもあります。)

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*上記クリックされますと、MSメディアプレーヤーなどのソフトが起動し、音声を聴くことができます(右クリック→「別のタブ/ウィンドウで開く」がお勧めです。)

それでは、ごゆっくりお楽しみください。

ごとう ひでたか 拝

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<Global Culture>
2007-05-15 Tue 16:33
「MTV文明」ともいえる、恐ろしい西洋化の波が、ここスリランカにも迫っています。

市外では、ハラだしルックの親父さんや、サリーを着た女性がバスに乗ったり、スーパーで買い物していたりと、まだまだ多いですが、大学周辺、また自分たちの通う教会などでも、Tシャツにジーンズ、ロンゲ(古いですか表現)でアディダスボストン等携行の男子諸君の姿がほとんど。また女子諸君に関しては、(超原色)カラフルなワンピースや、パンツにこれまたハラだしの(って女の子にはそう言わんのか)フリル付きシャツなど。

ランカ版 原宿系ファッション雑誌は欧米のセンスを取り入れ、テレビではMTV以外にも「American Idol」というアマチュアの歌審査勝抜き番組などをもてはやします。下らんTV通販も、日に焼けた筋肉○カの「いや~ジムこれはすごいよ」コメントなど、何かと米国風です。

しかし。わたしは叫ぶのです。
「Massproduced(大量生産されたもの)は、あなたに似つかわしくない。」と。


<「Massproduced」の何が悪いのか>
「Massproduced」の例を一つあげると、「MTV」で流れてるプロモ・ビデオ。
ファッショナブルで、先鋭的で、楽しそうで、良いじゃん?

実情の「おそらく」
●歌手=ルックス+声+雰囲気が曲と合えば、この際誰でも良いや。
●曲=テンポ+歌詞+曲風が流行と合致すれば、この際何でも良いや。
●ビデオ演出=テーマ+背景+予算枠に当てはまれば、この際どうでも良いや。
結論;とにかく速く。とにかく安く。とにかく大量に。生み出せ、生み出せ。

「でもあなたは「とにかく生み出せ」などという、下賎な命令の元に創造されていない。」
「あなたには「どうでも良い役割り」など与えられていない。」
「だからこそ、あなたのような特別な存在に、Massproducedな思想や観念は、似つかわしくない。」と。

また、最近のMTV系曲に言えることですが、先が「読み易い」のです。マンネリ、ワンパターン(黄金率でもあるのか?)に縛られて、メリハリ、ピーク、テンポの変化など、次に何が来るか簡単に予想できるのです。
ドラマでもそう。予想できる「ベタな」展開は、既に魅力を喪っています。
反面人生は。一歩先の予測もつかない、素晴らしい「未知」に溢れた空間です。


そんな風潮の中、次々と新しいものを生み出そうと、頑張っている努力家たちがいます。
しかし彼らが成功するや否や、速攻でその手法や味付けを真似る輩が世界中で発生し、「我も我もコピペ」。世界各国の文化的背景からくる、アーティスト固有の色や、創造性は薄まって行きます…。


標題「Global Culture」が、もし先進国のコマーシャリズムに扇動された、安い、ありふれた、盲目コピペ文化なのだとしたら。それは単なる「見た目だけ」の問題ではなく、私たちの心に深く根付く「虚構」に他なりません。

だから、私は更に大きな声で、叫ぶのです。
「ランカ人よ、ランカ人であれ!」と。「山田家よ、山田家らしくあれ!」「優子さん、優子らしくあれ!」と。
スリランカの大切な文化を、貧相な押し付けの文化、見た目だけで中身空っぽの文化と、間違っても取り違えないでくれ!と。あなたのアイデンティティを、大切な遺産を、そう簡単に明け渡さないでくれ!と。

なぜなら「自分であること」を辞めたとき。
私たちは大いなる「アイデンティティ・クライシス」という落とし穴に、まっさかさまに落ち込むからです。


反対に、自分の個性を発見し、伸ばしていくには時間もかかるし、何せ試行錯誤の連続です。恥じかくこと必至。そう、自分を「建設する」、自分を「掘り起こす」のは、そんなに簡単なことではありません。一生かかっても、鉱脈に達することができるかどうか。そして人生は、あまりに短いのです。

だから私たちは、神さまに頼って、ガイダンスを求めましょう。
私たちの過去・現在・未来に渡って全てを知っている方に、素直に「請問(教えてください)」と聞きましょう。

「求める者は受け、捜す者は見いだし、叩く者には開かれる」とある通り。主が私たちを成功に導いてくださることを、私たちは知っているからです。

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主の福音 第五章 第一節~第四節
2007-05-14 Mon 21:23
主の福音 第五章 第一節~第 節

主の福音 <The Good News> 朗読

今日は第五章 第一節~第四節までを読みます。

(「主の福音」、また冊子については、主の福音 <はじめに>をご覧下さい。また「続きを読む」内にテキストもあります。)

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それでは、ごゆっくりお楽しみください。

ごとう ひでたか 拝

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主の福音 第四章 第一節~第二節
2007-05-13 Sun 20:55
主の福音 <The Good News> 朗読

今日は第四章 第一節~第二節までを読みます。

(「主の福音」、また冊子については、主の福音 <はじめに>をご覧下さい。また「続きを読む」内にテキストもあります。)

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*上記クリックされますと、MSメディアプレーヤーなどのソフトが起動し、音声を聴くことができます(右クリック→「別のタブ/ウィンドウで開く」がお勧めです。)

それでは、ごゆっくりお楽しみください。

ごとう ひでたか 拝
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<神のコンタクト>
2007-05-12 Sat 14:27
神さまが私たち人間にコンタクトを取ろうとするとき。「あなたの人生のKingdom Goal(神さまの与えた目標)はこうですから」と伝えようとするとき。一体主はどうなさるでしょう。

1.「大音響の声」で、語りかける。希少です。超レアです。聖書の中でも、神さまから直接話を聞いたのは、主イエスとアダム夫妻、アブラ(ハ)ム、モーセくらいに限定されるのですから。もしあなたが神さまから、「そこは聖なる地だから、くつを脱ぎなさい」とか言われたら、集中して耳を傾けましょう!メモのご用意も。

2.「心の中に重圧」を与える。ダビデが巨人ゴリヤテに立ち向かったとき。またネヘミヤが、破滅し嘲られていた同胞を顧みて、エルサレムの町を復活させたいと王に願いでたとき。彼らは自分の中で膨れ上がる、強い痛みや、苦しみの圧力を経験しました。それゆえ「どうしたらできるか」という方法は、その時点で全く分からないまま、彼らは飛び出したのです。
こんな風に、神さまは私たちに「何とかせにゃならん」というプレッシャーを、シグナルとして与えているかもしれません。

3.「夢/ビジョン」を見させる。ふとした拍子に、「こうできたらいいな」「こうあるべき」「こうなりたい」というゴール/完成品の幻や夢を見ること。ヨセフのビジョン(創世37~)は異母兄弟たちから恨みを買いましたが、その嫉妬・恨みをすら神さまは、人民の益としてくださったのです。
あなたも見ているはずです。周囲が「そんなの無理」と諦めてしまうような、壮大な夢を。

4.「誰か(牧師や、家族、友人など)」から告げられる。「これ試してみたら」「やってみればいいじゃん」「お願いします」など、信頼できる誰かから誘われたり、依頼されたり、道を示されたりする。主イエスに従った12弟子たち、パウロが弟子として引き抜いた青年テモテも、「一緒に来なさい」と誘われるまま、ついて行きました。ヨブもまた、喪失と病の苦しみの中で友人たちから励まされ、主にあって復活したのです。エステルは、同胞イスラエルの嘆きを受け止め、死を覚悟で王の前に立ちました。

5.方針の食い違いからくる、「不満足」を与えられる。神さまの仕事のために、割ける時間がどうしても取れない。また、今自分がしている仕事は、自分のミッション・優先順位にそぐわない。王の献酌官だったネヘミヤも、「時間がないから、フルタイムで現場監督してきます」とエルサレム再建に向かったのです。
民間企業からNPOに転向したとき。私に与えられたメッセージも、この不満足だったように思います。

<「Amen」とは、受け入れること>
上記の例のように、様々な方法で、神さまは私たちにメッセージを与えてくださいます。神さまは優しい方ですから、私たちが理解できないと、そのことばを何度も繰り返し、イベントを組み合わせて、教えてくださいます。
それがもし与えられたとき。私たちができることは、「心を開いて、受け入れる」ことです。
それを心に留め、実行することです。

変化を嫌うのは、誰しも同じです。しかし、神さまの声に従うことを拒んで、逃げ出すと、海の大魚に喰われるかも。

だから、主に聞いて、自分のハァトが「正しい」と頷くことを、してみませんか。
「戦略」「事業計画」「経験」「人脈」「知識」…。あれば確かに素晴らしい。しかしそれ以上に、あなたを突き動かすもの、「Kingdom Passion(神に与えられた情熱)」と、それに従って行動することのほうが、大いなる目標を達成することが多いのです。

信じて、行動してみましょう。
あなたの必要を満たし、あなたを護り、あなたを幸福へと導いてくださる方が、あなたの行動を待っていますから。

信じて、行動してみましょう。
あなたの人生は、その瞬間に変わりますから。


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<主にあって、ユニーク。主にあって、選択>
2007-05-12 Sat 14:22
神さまは、私たち一人ひとりを、ユニークで、特別な存在として創造されました。それは「あなたの先に、あなたのような者はなかった。また、あなたのあとに、あなたのような者も起こらない(I列王3:12)。」と聖書にもある通りです。

そんな「他に類を見ない」私たちが集まってできている、社会。さぞかし豊かなバリエーションを持った世界でしょう。

しかし現実には、私たちが、その個性を前面に出すとき。私たちが、より素晴らしい存在に生まれ変わろうとするとき。世間一般が「出杭打」を執行する可能性は否めず。そして、これまでの交友関係が、変わっていくあなたを受け入れられないことも、敵視する可能性さえ、…残念ながら否めないのです。

しかし、神さまは「私たちのユニークな存在を、ギフトを、この世界に明らかにせよ」と言われます。この世の光として輝けと。この味けない、ダルい社会に、ピリッと効いた塩味として、神の栄光を明らかにせよと。

己のかけがえのない個性と、特別な使命を胸に、世界に変化をもたらした人々。それは、群集が「頭おかしくなった?」と野次る中、迫っている災害の警鐘を鳴らし、箱舟を建造したノア(創世6~)であり。「復讐鬼」「グラディエーター」「パニッシャー」にならなかったヨセフ(創世37~)であり。当時の潮流であったバアルとアシュラ像を(夜半にこっそり)切り倒したギデオン(士師6~)であり。わが身可愛さに逃げ出すのが普通なのに、羊をさらう熊やライオンを追跡し、ひげをつまんで打ち殺す、牧者ダビデ少年(Iサムエル17~)であり。ユダヤ人社会から、抜け忍として追われる身となった、パウロ(使途9~)です。

<少女の葛藤>
そうした人物の中で、一人スポットライトを当ててお話したいのが、「ナアマンのしもべ(II列王5~)」です。
「誰?」といわれた方、正解です。そう、「ナアマン将軍」ですらない。その「しもべの少女」です。

その少女は、聖書に名前の記述がありません。仮に亮子としておきましょう(なぜ日本名)。少し背景を解説しますと、イスラエル人の亮子は、アラム人によりその家族を殺され、故郷から拉致されてきました。そして、アラム軍を導き、彼女の両親の命を奪った将軍、ナアマンの家のはした女として、生涯を過ごすように命じられます。(亮子ガーン)

そんなとき、憎き両親の仇、ナアマンがらい病に冒されます。

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<私たちは「OO世代」ではない>
2007-05-10 Thu 13:20
バブル崩壊後の「失われた10年」。「就職氷河期」、そして「格差社会」と謳われる時代を生きてきた私たち25-35才の世代は、団塊ジュニア、ジェネレーションX(O星からの物体Xか?)、フリーター、ニート、「勝ち組」&「負け犬」、モラル崩壊、ロストジェネレーション、アダルトチルドレン、まじめ世代、抗うつ剤依存、自殺志願…。様々な括りで呼ばれてきました。その度に世論から悲観され、社会からあたかも異生物のように扱われ、理解されず、希望なくただ機能する「働きマン」として、Overgeneralize(大っ括りの枠の中に、誰彼構わず放り込むこと)されてきました。

私はこんな幼稚なメディアの発言や、押し付けは、信じません。
それにより演出される同情も、憐れみも。偏見も、先入観も、いりません。

私にはただ、どんな事にも、どんな時にも、流されない。
確かな物があればいいのです。

<主イエス、あなたも30歳でしたね>
イエスはある目標を胸に、この世界に来られました。
それは、私たちの砕かれた、悔いた心を贖い出し。この世の常識という檻に閉じ込められた私たちに、解放を告げ。全ての貧しい人たちに良い知らせを伝え、悲しむ人たちを慰め。世俗の価値観で盲になった私たちの目を開き、正直で勤勉な者をその善に従って義を報い。暗やみで手探りする私たちに、明りを照らし。迷い出た一匹の羊を探し出して救い、襲い来る獅子や熊に背を向けず、彼の群れを守り。
私たちを一人でも多く、神さまの道、恵みとまことの道に、導くために。

彼はその「確かな物」を抱きしめて、十字架の死にまで従いました。


そこには、上の者が下の者に与えるような、同情や憐れみ。
余所者に向けるような偏見、先入観などというものは、全くありません。
ただ、あなたと、主イエスとの、確かな愛の絆があるだけです。


だから私は、主にあってこう反論します。

「失われた10年」、結構。あなたたちが失った10年を、私たちがみんなで取り返す。
「就職氷河期」、結構。氷河期により、老いて変化についていけなくなった恐竜は滅んだ。私たちは常に変化の中で生き抜いてきた、哺乳類だ。更なる変化に対応できる種だ。
「格差社会」、結構。富に執着することで失ったモノに気付いたら、現実に戻ってくればよい。神にあい、感謝の涙を取り戻すタイミングは、誰にでもある。
団塊ジュニア、結構。私たちは戦後の灰燼の中から立ち上がり、日本を盛り上げてくれた父たちの「ジュニア」だ。
モラル崩壊、結構。私たちには、悪を見てそれに習わず、真理と善、友愛を喜ぶ選択ができるからだ。
ロストジェネレーション、結構。「失われた」私たちを、探して、救い出してくれる方がいらっしゃるからだ。
まじめ世代、結構。神は、勤勉で正直な人間が滅びるようには、決してなされないからだ。
自殺志願、結構。一度死んだ身と思えば、人間何だってできるからだ。

だから、同胞たち。今、強くあれ。
それは、
「主ご自身があなたの先に進まれる。主があなたとともにおられる。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。恐れてはならない(申命31:7~8)。」と、聖書にもあるからです。

私があなたに応援歌(Battle song)を歌うのではありません。
私たち一人ひとりが、ありったけの声で、歌うのです。そして、一歩ずつ前進するのです。
私たちがその個性を、ユニークな才能を持ち寄れば。
主にあって不可能はないと、堅く信じています。

そうすれば、きっと世界は変わります。

いつも応援感謝しています。
あなたのひとポチで、より多くの方が導かれ
愛と平安を見いだすことができますように。
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<飛びたいんです、神さま>
2007-05-09 Wed 17:03
JENのコロンボ事務所に、小鳥のカップルが巣を作りました。空っぽの第二車庫の、可動ゲートのレールの上に。
巣の中にはまだ羽根の生え揃わない、ヒナが口を開けて親鳥たちの帰りを待ちます。
そしてここ数日、その内の2羽が、その小さな翼を打ち震わせて、飛び立つ練習を始めたのです。
その日から、私の戦いが始まりました。

残念なことに、このヒナたちは、彼らが想像しているように飛ぶことは、まだできません。
力いっぱい羽ばたいても、良くて水平飛行。少しでも力を抜けば、下り坂です。
幸い、落下の衝撃を殺すくらいはできるので、落ちて死ぬことはありませんが、地面に落ちてから再び2.5メートルほどの高さまで飛び上がることは、まだ到底できません。


こうした野生の命は、一つのミスが即、死につながることは、皆さんご存知の通りです。
食料がない。天敵に襲われる。直射日光で干からびる。車に轢かれる。雨に打たれて死ぬ。
そう、巣から落ちたヒナが、敗者復活を遂げる例は、殆どないのです。


私がそんな生命の営みに干渉することは、出すぎたことだったのかもしれません。

しかし、倉庫に手ごろな梯子があって。
ヒナが地面でしゃがみこんでいたら。

誰でも手を貸したのではないでしょうか。

<救っても、救っても>
2羽の兄弟(推定年齢人間にして5歳と、3.5歳)が、飛行訓練を始めてから。特にお兄ちゃんが辛うじて水平飛行ができるようになると、弟も居ても立ってもいられなくなって、飛んでしまうんです。

そして、案の定落っこちて。地面にへたり込んで、ただ親鳥に向かって泣き叫ぶのです。

日中の暑い盛り、日の下でじっと焼かれていた弟ヒナを、2度巣に返しました。兄ヒナも一度。
夕方、突然の雷雨が襲う手前で、再度弟ヒナを巣に戻してやりました。

周囲が暗くなると、自動的に眠くなるのか。それとも、地面でへたり込んで、泣き疲れていたのかは知りませんが。巣に戻ったヒナは、すぐまぶたを閉じて、眠ってしまいました。

それから私は、毎日日が落ちて、ヒナたちが寝る時間まで、事務所に拘束されることになったのです。

<でも、私たちも同じ>
そんな私が気付かされたのは、「神さまの目には、多分、人間も同じではないか」ということです。
神さまは、私たちに益になるようにと、様々な助けと、導き、気付きを与えてくれています。
しかし、「親の心子知らずNG」で、私たちあらぬ方向へと、自分勝手に進んで行ってしまいますね…。

私たちが、まだ満足に飛べないとき。失敗すれば大変なリスクを背負うことになっても、周囲の状況や、外野の声や、誘惑に負けて、飛んでしまったことが、何度あったことでしょう。

振り返ってみて、「何であんな馬鹿なことをしたのか」と笑うか、泣くか。後悔はしてなくても、もし今「ゴメンね」と言えたのなら…と思ってしまうこと、幾つあったでしょう。(それって後悔?)

恐らく、神さまがその手で「そっちへ行っては行けないよ」と道を塞いでも、私たちは盲目にその手を迂回して、進んでしまうんでしょうね。何度「後2~3日、成長するのを待ってから飛びなさい。いいね?」と言われても、私たちは理解できずに飛んでしまう…。


でも、神さまはそこで、私たちを見捨てずに。

必要なとき、地面で途方に暮れる私たちを、拾い上げてくれるのです。
私たちが暗やみで「助けてください」と叫ぶとき、光をかざしてくれるのです。
ありえない「敗者復活」を遂げさせ、真新しい人生を始めさせてくれるのです。
砕けてしまったこころを、拾い集め、つなぎ合わせて、完全にしてくださるのです。

私たちがかつて、経験したことのない、「愛と赦し。」
それを、この生き辛い現世ですら、感じさせてくださるのが、神さまなのです。


「感謝しろよ」と言っても、しようのない生命。
でも、その兄弟ヒナもいつか成長して、JENに戻ってくるでしょう。

救われた一つの命が、更にたくさんの命を、この世界にもたらすように。
神さまの手に触れられた私たちも、更にたくさんの実りを、この世界にもたらすのです。

イザヤ55:9~12
「天が地よりも高いように、わたしの道はあなたがたの道よりも高く、
わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。
雨や雪が天から降ってきて元に戻らず
必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、
種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。
そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、
むなしく、わたしのところに帰っては来ない。
必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。
まことに、あなたは喜びを持って出て行き、安らかに導かれていく。」

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<本当に確かなもの>
2007-05-09 Wed 17:00
私たちの人生の中で、何か一つでも確証をもって、頼りにできるものが、あるでしょうか…。

自分。知識。経験。家族。友人。健康。
富。家。役職。コネ。ペット。権力。学歴。名声。

私たちは一体何を頼りにして、生きて行けばいいのでしょうか。


以前、私は「頼りにできるのは自分だけ」という人間でした。
ですから、何でも自分で決めて、自分でしました。そんな私の好きな言葉は、「DIY(Do It Yourself)」です。留学、アパート探し、就職、旅行、聖書の勉強に至るまで。その頃はとかく、社会に、そして人びとに対する変な反骨心から、何でも「DIY」を決め込んでいました。オーストラリアのブリスベンで、日本人学生のコロニーの弊害を理解していた私は、留学時わざわざ、日本人の居ないミシシッピ州を選んだくらいです。それが「平凡は似る(mediocre imitates)」というマーフィーの法則を破る方法だと、誇りに思っていた時期がありました。

しかし後に、その「自分」も意外と頼りないものなんだ、ということに気付かされるのです。

●脳卒中で倒れた友人。祈る以外、何もできなかった自分。
●NGOの職場。経験値ある他のスタッフに混じって、唯一民間からの転向組、劣等感の嵐に苛まれた自分。
●事業地で、山歩きをする。息が切れてしまって、現地の子どもにすら追いつけない。でも「待って、ちょっと休憩」とも恥ずかしくて言えない、弱い自分。
●同僚の死のショックで涙が止まらなくて、正面のスタッフから見られないように、イスの高さを下げた自分。
●下らない書類の入力ミスで、へこむ自分。
●寝坊して、へこむ自分。

ああ、だらしない。ああ、何の取り得もない。ああ、弱っちい。ああ、何て絶望的な。自分というこの器。


<主にあって、確信>
そんな失意と自己嫌悪の真只中で、私は神さまに会うことができたのを、とても幸運に思います。

神さまは、私の自責と、コンプレックスと、後悔と、弱さと、醜さを、全て知っています。
その上で、「たとい山々が移り、丘が動いても、わたしの変わらぬ愛はあなたから移らず、わたしの平和の契約は動かない(イザヤ54:10)。」と言ってくださる方なのです。

神さまは、私の絶望と、怖れと、疲労と、重荷と、ストレスを、全てご存知です。
その上で、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイ11:28)。」と言ってくださる神なのです。

<主と共に立つ>
人生の苦境や痛みをくぐり抜けて、更に強く、幸せになった人びとがいます。
彼らは、何も特別ではありません。一般の人々と、何の違いもないのです。一点を除いて。
そう、彼らは人生の中で寄り頼める、確かなものを持っています。「神さま」を知っているのです。

もしあなたが今、苦しんでいて。先の見えないトンネルをただ、歩いていて。
少しでも、
「そんな、支えてくれるものがあったらいいな。」
「移ろいやすいこの世界で、一つでも確信が持てるものが欲しいな。」
と思ったのなら。

あなたの為だけに、差し伸べられている、主の手を今、取りましょう。
祈りのページに行って、私の後に続き、声に出して言ってみて下さい。


できました…?

つかの間の、心の落ち着き。
忘れてしまっていた、一瞬の静寂と、平安。

祈りの後、もしそれが感じられたのなら。主は既に、あなたの人生を良い方へと、変え始めているんですよ。

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<人生のレースは>
2007-05-07 Mon 18:06
「…私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか(ヘブル12:1)。」

上記は新約聖書内、パウロの言葉です。
私たちの人生は、レースです。と言っても、一般社会的に述べられる「競争」のことではありません。
神さまから、自分に与えられた目標を達成する」までの、長い道のりのことです。

私たちの多くが、そのレースに参加し。そして、立ち止まったり、途中で棄権したりします。しかし重要なのは、そのレースをいかに「始めるか」でなく、いかに「走り続け」、「完走するか」なのです。


その為に必要なもの。それは、単なる「できたらいいな」という願望ではありません。
神さまの与えてくれたゴールを、達成するんだ」「絶対やり遂げるんだ」という、デスパレートなまでの決意です。

聖書から引用してみましょう。

[痩せこけたマリア]の話
マグダラのマリア、7つの悪霊に憑かれ、その身を持ち崩し、周囲から非難され、見捨てられていた女性の話です。主に会ってから、彼女の人生は変わりました。しかし、彼女の過去を知る人間からは、常に「あのOOが」「××なのになぜ」「どうしようもない△△に違いない」(放送禁止用語連発、私じゃないんですよ…)と、自責と、後ろめたい気分を味あわされていたに違いありません。

また、徒歩の旅路の福音伝道ですから、他の弟子たちについて行くだけでも大変だったでしょう。グループの中でも、弟子たちの身の回りの世話や、小間使いとして働く、一番小さな者として扱われたのではないでしょうか。日に焼けて、髪は乱れ、肌は荒れました。しかしその眼は、主イエスキリストから片時も離れなかったのです。

彼女は、女性としての喜び、清潔さ・美貌・家庭…そんな物全てをなげうって、主に従いました。

[ちびのザアカイ] の話
次に、ザアカイの話。彼は取税人の頭で、金持ちでした。職業柄嫌われていたとは思いますが、それゆえ地位もあり、ジェリコの町では周知の人物です。しかし、彼は背が低かった。

そんな彼が、「キリストが今町を通っている」と聞き、居ても立ってもいられずに飛び出しました。ですが、既に群衆の山が塀を築き、背の低いザアカイには何も見えません。何とか潜り込もうとするザアカイでしたが、普段彼に虐められている群衆が、ここぞとばかりに彼をさえぎって、前に行かせてくれませんでした。

途方に暮れたザアカイ、ふと見ると道端に大きないちじくの木があるではありませんか。彼は迷うことなく、その木に登って主を見ました。

そこで、呼ばれるのです。
他の誰でもなく。主イエスは、彼の名前を呼びました。


日本で成人男性、特に40を過ぎた方。しかもその地区で名の知れた方が、木登りをするのはなかなか勇気のいることです。「ちびのザアカイ」が、恥も外聞も捨てて、信じて、行動した。その信仰が義と認められて、主は彼の元に身を寄せたのです。

そこで、心に負い目のあったザアカイは、これまで犯した罪と、悔い改めの告白をします。主はそれを温かく迎えて、こう言うのでした。
「きょう、救いがこの人の家に来ました。<中略>
人の子(キリスト)は、失われた人を探して救うために来たのです(ルカ19:9~10)。」

<神は私たちの「デスパレート」な願いを、必ず聞いてくださる>
もし私たちが、自分の栄光のためでなく。他者の益と、神さまの栄光を、心から強く願い、そしてその想いを遂げるため、行動するなら。
神さまが必ず「全てのことを働かせて益としてくださること」を、私たちは知っているのです。

「神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです(ヘブル11:6)。」

いつも応援感謝しています。
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愛と平安を見いだすことができますように。
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<主の御手、あります?>
2007-05-06 Sun 18:58
「主の御手」とは、つまり神さまの導き、護りであり、支援です。私たちが神さまの意志に従って生きるとき、与えられる無限のリソースや機会は、そう、主の御手から来ます。

預言者エゼキエルが、亡国イスラエルの民と共に、異国カルデヤ人の地で捕囚として生活していたとき。
「主の御手が彼の上にあった」のです。そして神さまは彼に次々と、イスラエルの荒廃と復活の幻を見せます。その中で人びとに「悔い改めよ」と。

その時、エゼキエルと同胞はとんでもなく、後ろ向きな状況に取り巻かれていたのです。奴隷としてカルデヤ人にこき使われ、すでに25年が経っていました。嘆き屋エゼキエルをして、「骨の、しかもひどく干からびた骨の、谷間」と言わしめた、生命の兆し皆無!希望の断たれた状態でした。

しかし、「主の御手は彼の上にあった」ので、エゼキエルはイスラエル復活の予言をして、「どの民族がどこを獲るべし」と、相続地の配分まで決めてしまいました…!
そして、歴史が明らかにすることは。彼の予言が、現実となった、ということです。

<「主の霊が共にあった」例>
[アブラハムさんの場合]
アブラハムの隆盛を見て、ゲラル地区の王、アビメレクはこう言いました。「あなたが何をしても、神はあなたと共におられる。だから私と戦わないと誓って欲しい。」

アビメレクには、アブラハムがこの短期間に、ゲラルの王に勝るほどの勢力を持ったことを指して、「まじで、神がいるんでないの…」と認めたのです。ホストとゲスト、そして既得権者と新興勢力。アブラハムを可能性敵国として恐れたアビメレク王が、彼に送った賛辞でした。

(しかし、この時アビメレクがつまずいたのは、「神はあなたと共におられる。」と感心・警戒しただけで、「俺にも紹介してくんない?」という発想に、つながらなかったことです。彼は安定した生活を変えたくないばかりに、目の前の素晴らしい宝を、逃してしまったのです。)

[ヨセフさんの場合]
私の好感度No2.の人物が、ヨセフです。根っからのバカ正直なのか、ちょっと自慢したのが仇になったのかは知りませんが、自らの異母兄弟に殺されかけ、あげく奴隷商人に卸されてしまいます。幸いリッチなエジプト人のお宅で経理・経営などを任されますが、そのオーナーの奥さんが強引にアプローチすると、仁義を守って逃げ出しました。しかし、恥をかかされたと歯軋りする奥さんからの偽証で、牢にぶち込まれます。その後も、王の側近たちの夢を解読して、彼らに善を図ったのに、獄屋での長きに渡る放置プレー。ファラオの前に立つことになるまで、長い紆余曲折がありました。

しかし、彼の物語を通じて書かれていることは、「主がヨセフと共におられ」、「主が成功させてくださった」ということです。だから売られたって、牢にぶち込まれたって、忘れられてたって、大丈夫。ヨセフがその状況や人びとの悪にめげず、後にファラオの右腕になれたのは、彼が全てを主のみこころに委ねて、信頼して歩んだからです。

[ヨシュアさんの場合]
イスラエル人たちがいざ、ジェリコの要塞を攻めようというとき。歴戦の司令官たちが集う中、神さまの御使いから指示を受けたヨシュアが、皆を静まらせてからこう語りました。
「いいか、俺たちの作戦はこうだ…。みんなで町の周りを回る。」

「(え~~ッ)」と内心皆さんつっこんだと思います。
しかし民は皆、ヨシュアに従い、静まるとき静まり、叫ぶとき叫んで、主のことばに従ったのです。そして見事、ジェリコの要塞を陥落させたのでした。

つまり、状況がどんなに厳しくて、過酷でも。それと「主の御手」があなたの上にあるか否か、は別問題なのです。そして、「主の御手」があるとき、私たちは恐れるものは何もないことを知っています。

あなたの手で覆ってください


<ありません?>
反対に、もし「主の御手が彼の上に」なかったら、一体どうなるでしょう。聖書は、善例だけでなく、「やっちまった~」という悪例も、たくさん取り入れていますね。

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