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後藤 秀孝
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JAPAN
主の福音 第三章 第一節~第四節
2007-04-30 Mon 20:00
主の福音 <The Good News> 朗読

今日は第三章 第一節~第四節までを読みます。

(「主の福音」、また冊子については、主の福音 <はじめに>をご覧下さい。また「続きを読む」内にテキストもあります。)

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ごとう ひでたか 拝
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<キリシタン隠れミッション近況Ⅱ>
2007-04-30 Mon 16:57
麻薬中毒患者更生施設である、パワーハウス(コロンボから南東に約35km)に行ってきました。その日は生憎の(大雷)雨でしたが、コロンボ近郊のメソジスト教会がユースキャンプを開催しており、何ともにぎやか。

ニールセン牧師が7ヘクタール以上あるという、高原の敷地内を案内してくれました。集会と賛美用の大広間(約12mt×25mt)が二箇所、患者の住居用ユニットが約3箇所、トレーニングルームが1箇所。養豚・養鶏、農業、製パンの収益事業からの資金と、海外からの支援金で薬物依存症患者へ最短6ヶ月の更生プログラムを提供しています。

私が見せてもらった部屋の中には、いわゆる「毒抜き部屋」がありました。
つまり、中毒患者が最初の1~2週間を過ごす、孤独で、苦しい、戦いの部屋です。


ここパワーハウスでは、専属医療スタッフはいますが、「段階的な薬物使用量の軽減」ではなく「ドラッグ供与を止める」ことで中毒を克服します。
牧師に話を聞くと、入所してしばらくは、後遺症として幻視・幻聴、そして絶え間ない痛みが、患者を襲うそうです。その激痛に耐えられず、逃げ出してしまう患者もいます。
そんな中毒患者に、神さまの愛を説き、苦痛がいつか和らぐことを説き、再び幸せになれる希望を説き、一緒に支え立ち直らせるのが、ボランティアで働くスタッフたちなのです。


彼らは、パワーハウスの卒業生。つまり、スタッフ自身が、元ドラッグ中毒患者たちです。
その中で中心的な役割りを果たしている、タノジさん(38)はこう話してくれました。

「私はランドスケープ・アーキテクト(ありのままの自然を活かした、建築のあり方の学問、またそれを学ぶ人)です。私が2年前に、ユースキャンプでここに来たとき、この触れられていない自然の美しさに惹かれました。あの斜面から突き出る岩の姿。あの岩の上で、朝5時から祈ったのを覚えています。東の空から太陽が昇るのを見て、ここで、この風景を取り込んだ建築ができればいいな、と思ったんです。」

「しかし、次に私がここに戻ってきたのは、その希望を叶えるためではありませんでした。その反対で、薬物中毒患者として他に行くアテもなく、最後の頼みの綱としてすがったのです。」

見ず知らずの他人に、自分の辛い過去を話すのは、大変勇気のいることだと思います。しかし彼は淡々と経緯を話してから、こう続けました。

「今、スリランカでは多くの若者たちが、かつての私のように、ナイトクラブやバーで、酒、セックス、ドラッグに溺れる事態が起きています。この施設で手助けをするのも一つですが、そもそも施設に入らずに済むようにするのが理想でしょう。だから彼らに働きかけて、悪の道から立ち返る手伝いをしたいのです。」

そう言ってタノジさんは、「今はこの土地で、今日のユースキャンプのように、若者を呼んで様々なイベントを仕掛ける計画をしています。そのために、更に居住区の建設を進めようとしているところです。」

「また、クラブ通いだった昔から、音楽は大好きでした。私が中毒を乗り越えて、人生全てを主に捧げたとき、主は私に再び、ギターを弾く才能を与えてくれました。だからゴスペルを通じても、青年たちに訴えかけていくことができると思い、実は今年7月9日、ライブイベントを企画しています。」

「絶対行くよ。」という私たち夫婦に向けて、彼は明るく笑って「段取りが全て成功するように、祈っていてください。」と言いました。


「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです(IIコリント1:4)。」

あなたの祈りも、貸してくれますか…?
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デスパレートな人たち
2007-04-29 Sun 14:38
「デスパレートな妻たち」はどうか分かりませんが、人間には「デスパレート値(つまり、心のゆとりのなさ)」というものがあります。つまり「私が限界トイレ我慢中に、千円で順番を譲ってくれるとしたら、そりゃ迷う」ということです。その心理戦を痛感させてくれるのが「タクシー運転手との交渉」ですね。

ここスリランカでは、3輪のタクシー(トゥクトゥク)に乗る際、必ず交渉します。なぜなら、外国人と見ると、倍は吹っかける楽天家がたくさんいるからです(インドの3~10倍よりはマシか?)。

その交渉には、この世の人間関係の核ともいえる、「デスパレート値」による争いが、如実にあらわれます。

例を挙げると、雨のとき(しかも傘なし)、大きな手荷物を持っているとき、またふて腐れた妻が「セコイ金額で何チンタラ値切ってんのよ!」という目で夫を睨んでいるとき。乗客のデスパレート値は、うなぎ上りです!!タクシーの運ちゃんはそれを見透かしたように、強気で「250Rsでどうだ、ハァ~ン?」という感じなのです。うぅ…。

だから、雨の日は傘を持つ、また荷物(と妻)は少し離して置くなどして、見た目デスパレート値を下げてから、交渉する訳です。すると、相手の強気にも強気のブラフ(ハッタリ)で返せます。

同時に、私たちは「運転手のデスパレート値」にも気付かねばなりません。

何度かあったケースですが、ガス欠寸前、しかも金欠、というドライバーであれば、「乗ってくださいッ」「お願いしますッ」という気迫で迎えてくれます。超安い金額を振っても、「外国人は金払いはいいから、まあいいか」みたいな変な信頼から、「とにかく乗せてしまえ」「そして給油だ」というデスパレートな声が内から響いてくるのでしょう。そして、「ミスター、すみませんが…。」とスタンドで前借要求してくる訳です。

また、日中で競争が激しいとき。しばらく客に恵まれていない運転手の心は、すぐ折れます。「150Rs!」と吹っかけてきても、こちらが「120Rsしか出せません。アッ他のタクシーが!!」とか言って歩くフリ(←大事です)をすると、「ああ、分かった分かった!!」などと言って乗せてくれます。

そう、このデスパレート値を見切ることが、対人交渉において非常に重要です。そして、こうした熱い心理戦が、途上国では日常なのです。

デスパレートな人たち…の続きを読む
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<童話 巨人がみの残したもの>
2007-04-28 Sat 14:35
時は西暦2007年。
パラレルワールドの裏のうら、ここヤンシノ界は神集島(かみつどいじま)でのこと。

現世で言う、てきさす州ほどの大きさのこの島には、住民から「かみ」と呼ばれる存在がたくさんいました。

未来を予言する力を持った、目がみ。
いつも上空はるかから、村びとたちを見守る、鳥がみ。
雨と実りをもたらす、美女がみ。

そんな三人のところに、いわゆる「大深層」地底の牢での刑期をおえて、巨人がみが帰ってきました。

巨人がみ、お茶している三人のところにやってくると、懐かしそうに誰彼かまわず抱きつきます。

美女がみ、たまらずに「あんた年寄りのくせに、力強すぎ。で、どうだったの。元気してた?」といいました。
目がみは、上目づかいに巨人がみを見て、「ずいぶん老けたな」と皮肉をいいます。
鳥がみも周囲を飛びながら、「お勤め、ごくろうさんでした」などといっています。

「ああ、わしも入所当初はどうなることかと思ったよ。」そういって丘に腰かける巨人がみに、お茶を入れる美女がみ。「あそこは地獄からおくられてくる鬼がみや修羅がみ、口達者の狐狸がみが9割だからな。」

「じゃあ毎日ケンカですね。」とつっこむ鳥がみに答えて、巨人がみはこう告げました。「まだまだ若いもんにゃ負けんよ。ベンチプレス118tは地底マスターズでダントツ1位だった。」

他にも、地底でのできごと、また地上の村の様子や、日常の話題、苦労話などに、花が咲きます。

「最近、先祖代々伝わるコンタクトが、割れてしまってな。」目がみはこう切りだしました。「予言の力は失うわ、PCの前で長時間いるからドライアイになるわ、さんざんじゃよ。」
「そんなわしの気もしらず、村人たちはあいかわらず、いくさの勝ち負けとか、競馬とか、カレシとの相性とかを、聞きに来るわけじゃ。」目がみは続けて、「メンツがあるから、答えんわけにもいかん。今はひたすら茶をにごしておる。」と愚痴をいったのです。

「あっしも村人の相談にはへきえきとしてますよ。遠くまで漁にでた船の帰りがおそいと、母親が子連れでやって来て、『鳥がみさま、鳥がみさま。うちのとうちゃんが帰ってきません。ちょっと見てきてください』なんて、頼んでくるんですよ。」鳥がみは続けて、「最近は漁にでる船の数が増えてきて、その管理にストレス感じて、見てください。つばさに円形脱毛症が。」と愚痴をこぼしました。

「私の悩みは、もっと深刻よ。」美女がみはこういって、「さいきん、雨がふらないで不作続きなんだけど、私に祈っても効果ないから、最近村人は『ばある』っていう外国の牛がみを祀るようになっちゃった。腹だたしいやら悔しいやら。」するとその美しい顔が反転して、毛が逆立ち、どす黒いきょうふの顔があらわれました。「『ばある』め、ぶっ殺してやる~。」

「ふぅん…みんな大変だったんだな。」とうなってから、巨人がみ、一冊の本を取りだしました。

興味津々の鳥がみが、巨人がみの肩に止まってのぞきこむと、それは読み古されたぶあつい本でした。
「なんだい、その本。」

「これはな、『ばいぶる』という。」そして、巨人がみは、牢でおきたある日のできごとを、話しはじめたのです。

「山落としの罪で投獄され、まだ入所して間がないころ。おれが獄舎のそうじをしていたときだ。監守から『おまえに面会人だ。』といわれたので、行ってみた。」巨人がみは懐かしむように、遠い目をしました。「すると、ちょうど人間くらいのサイズの、ちっちゃな男が、面会室で待っていた。扉がしまる重い音で、彼はふりむいたんだ。」

「そのころ、おれは他の入所者、鬼がみたちと、関係がうまく行ってなかった。とくに終身刑のマジェンタとシアンの二人ぐみとは、何度も衝突しかかった。いつも後ろを警戒していたし、いらいらしていた時分だよ。」

聞きいる3人組に、巨人がみは続けます。「そんな時、そのかれはおれを見舞いに来てくれた。まったく見ず知らずのおれを。」そして、『ばいぶる』の表紙をなでて、「この本は、かれがくれたものなんだ。」といいました。

表紙をめくると、本のなかはきいろやピンクの線、手がきの文字列やポストイットでいっぱいでした。

「心が荒んで、だれも信用できなかった。そんなとき、『あなたの敵を愛しなさい。』って、かれはいったよ。」巨人がみは「愛」という言葉に少し照れて、続けました。「最初は、『なんだこの部外者は』『食うか食われるかの、牢やの環境がまるで分かっちゃいない』って、思っていた。」
「でも、かれは続けて『わたしたちの神が、あなたを愛しているように、そのように、他人をも、敵をも、愛しなさい。』といって、『ばいぶる』を開き、『ほら、ここに書いてある。』といったんだ。」

「それから、おれとかれの面会は続いていった。かれが話す『神』は、この世界や、おれたちをも造ったんだ。でもおれは最初、『おれがかみなのに、何で他の『神』によりたのまにゃならん?』と思っていた。」
「でも、『力のかみ』って呼ばれてあがめられていたおれも、じつはもう年で腰痛に悩み、膝には水がたまったりしている。昔のように山を動かすのは無理。すでに肉体の限界を感じていたんだ。」

「そんな悩みを聞いて、かれはこういった。『あなたが誰で、これまでどんな生活をおくってきたか。あなたが自分をどう思っているか。そんなことは関係ありません。』

『神はあなたを愛していますよ。』

そして、『そんなあなただからこそ、できる仕事があります。』といってくれた。『見えないものの目を開き、病人に手を置いて癒し、悪霊を退散させること。心傷ついたものをいやし、囚われびとに赦免を告げ、悲しむものをなぐさめること。

そして、そうした奇跡をあなたのために起こしてくれる『神』について、皆に証言して伝え広めること。』」


みんなし~んとなって、聞いています。

「かれから、そしてこの『ばいぶる』からえた知恵は、その後、いろんなトラブルからおれを救ってくれた。」巨人がみはその太い腕をたたいて、「この腕力よりもな。」といいました。

すると、他の三人のかみは、次々と質問します。

目がみが最初でした。「わしのような場合は、どうじゃろう。魔道具を失ったいま、嘘をついてでも予言をするべきじゃろうか?」

「神は、『子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。それによって、私たちは、自分が真理に属するものであることを知り、そして、神の御前に心を安らかにされるのです。』といっている。とりつくろうための言葉や、嘘にたよらないで、お前さんのもっている知識で、村人に益を計ったらどうだ。そうすれば気に病むことはなくなるよ。」

鳥がみが続きます。「漁にでる村人のこと、またもし行方不明がでたとき、村人たちに何を言われるか、そんな心配で夜も眠れないときがあります。最近胃かいようもあるって、医者に言われたし…。高ストレスな役職、私正直、向いてないんですよね…。」

「救世の主は、こういっているな。『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。』また、『明日のことは明日が心配する。』と。あんまり心配ばっかりしてもしかたないから、神に祈って心配ごとを預けてしまったらどうだい。」

美女がみが最後に、「私最近、怒り、嫉妬、ヒステリーがでることが多いの…。私よりきれい、とか、私より若い、とかで、私より敬われてるかみがいると、つい感情的になってしまって…。キレる私のきょうふの顔を見て、村人がさらに逃げていったわ…。」と告白しました。

聖書にこうある。
『愛は寛大であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。
礼儀に反することをせず、自分の利を求めず、怒らず、他人のした悪を思わず、
不正を喜ばずに真理を喜びます。
すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。
愛は決して絶えることがありません。』とね。
『自分のほうを向いて!!』というのでなく、愛をもって彼らの方を向いて、彼らの悩みを解決してあげることに、専念すればどうだろう。」

巨人がみのこうした賢い答えは、3人のかみがみを感心させました。「すごい。おれたちの質問への答えが、つまってる本なんだね?」と聞く鳥がみに、巨人がみは笑って答えます。「そう、知れば知るほど、奥が深い本だよ。」

そして、三人のかみがみは、巨人がみのアドバイスに従って、がんばってみました。


するとどうでしょう。以前はおそれ、遠くはなれて、とても他人ぎょうぎだった村人たちが、かれらの助けをありがたがり、喜んで、親しく寄ってくるようになりました。それと共に、3人のかみがみの中にも、にんげんの苦労を知り、かれらを思いやる気持ちが、強くめばえたのです。そこには、以前なかった絆が、確かに生まれました。

目がみは、その豊富な知識と、毒舌で人を笑わせ、助けることが、楽しくなりました。
鳥がみはストレスから脱して、事故の予防策(天候の予知や、ファースト・エイド、海難・危機回避)を漁師に教えることに、生きがいを感じるようになりました。
そして美女がみは、その愛で村人たちを包んだので、きょうふの顔を見せることは二度とありませんでした。


そして、年に一度の祭りの日。
人びとが祝福して、かれら3人のかみがみを讃えようとすると、彼らはいいました。
「私たちでなく、この世界をつくり、わたしたちとあなたたちをつくった神さまを、賛美しよう。」

そして、村を去ってしまった巨人がみのことも想って、かれらは謳ったのです。

「わたしの上に主の御霊がおられる。
主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、
わたしに油を注がれたのだから。
主はわたしを遣わされた。
囚われ人には赦免を、
盲人には目の開かれることを告げるために。
しいたげられている人々を自由にし、
主の恵みの年を告げ知らせるために。」

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「泣く」こと
2007-04-27 Fri 12:05
年を経るにつれ、涙もろくなってきた自分を感じます。

例えば、昼間レストランの大型モニターに映っていたフィル・コリンズのプロモ・ビデオで、ホームレス、ストリート・チルドレンをテーマとして取り上げたもの。「貧しくてかわいそうな人たち」を前面に打ち出した作品で、昔だったら「あっそ。」「汚い子。」「白々しい演出。」で終わっているようなもの。

しかし今見ると、その映像は私が会ってきた、たくさんの子どもたちと、かぶるのです。


彼ら、服なんか、汚いです。顔も、鼻水と炭/油?で汚れています。頭をなでると、ごわついた毛で、何日洗ってないのか想像させられます。クリケットをしたり、丸めた紙くずでバレーボール風をしたり、物珍しそうに私の後をしつこく追いかけてきたりします。

震災直後の現場で、健気に支援物資を受け取りに来ていた少女たち。家族の喪失という、悲しい身の上話を、片言の英語でしてくれました。写真を撮ると、嬉しそうに、でもちゃっかり「100ルピーくれ」とか言ったりします。

カルカッタのCity of Joyで。カシミールの山奥で。イスラマバード、またデヒワラのスラムで。

彼らの顔が、未だに思い浮かびます。元気だろうか…。泣いていないだろうか…。ちゃんと食べてるか…。

すると、こんな欧米の演出家が製作したMTV風番組でも。頬を、涙が一筋こぼれるのです。

<男は涙を見せぬもの>
私は日本人として、男として「不動心は強さの表れ」「涙は弱い者が見せるもの」という考えでおりました。どんな状況であっても。辛いとき、孤独なとき、たとえ愛するひとをなくしたときでも――男は黙って酒を飲み、飲んで~、飲んで~、飲まれて~、飲んで~。なのです。静かに眠るのでしょう。なのです。

「武士道」の著者である、新渡戸稲造さん(5千円の人)は、こういう例えを話していました。

「戦争に出征する息子たちを見送りに出た家族が、一体どんな悲しみの姿を見せるのか、外国の報道員が興味深々に窺っていると、何のことはない。別離の泣き声も、悲運への嘆きも、最後の熱く長い抱擁も、そこにはなかった。ただ、別れ行く親と子、静かに手を振る群衆から、時折押し殺したような、啜(すす)り泣きが聞こえるのみだった。

しかし、考えて頂きたいのは、日本人が感情がないために、このような対応をしているのではないということだ。逆に、その人一倍繊細な、傷つき易い心を内包し、その魂の慟哭をしかし隠すことを通じて、その深奥の悲しみを表しているのである。つまり日本人は、非常に感情豊かな民族なのだ(内容意訳)。」と。

それは、日本の歴史から、連綿と続く「美」の意識でもあります。「悲しみ」という内部的なものより、「感情のコントロール」「品性」「礼儀」という対外的なものが「美しい」とされたからです。

そして、こうした「美学」「内に秘める悲しみ」理論は、私を含めて、多くの日本人(特に男性)を虜にしてきました。時代劇、特に年末の超大型時代劇「忠臣蔵」「白虎隊」などを見て、その潔さと、こらえてみせる涙に、私たち手放しに感動するのです。だから「自分もそうあるべきでしょ」という刷り込みが、子どもの頃から発生することになります。

<男性諸君。でも、泣いていいんです>
そう。それが、自己憐憫の涙でなかったら。欲求不満の涙。悔し涙。「どうして誰も分かってくれないんだ」という、憤りの涙でなかったら。

それが、感謝の涙や、他人のために流す、きよい涙であれば。
思いやりと、友愛に溢れた涙なら、思いっきり泣いていいんです。
静かに湧きあがる、豊かな感情のほとばしりなら、その流れを抑えたり、止める必要はありません。

涙が出るのは、あなたの心が澄んで、響きやすくなっている証拠です。
愛と慈しみを、感じやすくなっている証拠なのです。


そして、もしあなたの目に、今ここに、こうして生きていることへの、感謝の涙が溢れたのなら。

あなたは今確かに、神さまに触れられたのです。

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超訳
2007-04-26 Thu 12:00
スリランカにて。怒声でわめき合う人々に、よく出会う。

もちろん現地語なので、何を叫んでいるか、どんなニュアンスで言っているのか不明。

その無知を逆手にとって、していることがある。
それは「超丁寧語翻訳」、略して「超訳」。

<初級篇:バスの車掌と運転手>

現実:バスドライバー「いいのか、出すぞ!!」「早くしろ!!」
車掌「ちょっと待て…いいぞ、行って」
ドライバー「よッしゃ」

超訳:バスドライバー「よろしいですか、発車しますよ」「お急ぎください」
車掌「少々お待ちください…。もう大丈夫です、発車してください」
ドライバー「かしこまりました」


<上級篇:タクシーと、乗用車の運転手>

現実:タクシードライバー「オイ何道の真ん中でチンタラやってんだ!!早くどかせ、アホ!!」
運転手「何だとこの野郎!!そんな言い方はないだろう!」
ドライバー「上等だボケ!!このオカマ野郎!!文句あんのかコラ!!」
運転手「お前もオカマだこのクソが!!」と言って去る。

超訳:タクシードライバー「一体どうなさいました?大変そうですね」
運転手「いや、ちょっと切り返しに失敗してしまって。ご迷惑おかけしてすいません」
ドライバー「いやいや、よくある事です。ミスター、お気をつけて」
運転手「あなたもどうぞ、お気をつけてお帰りください」と言って去る。


超訳は、単に丁寧語に訳するだけでなく、そのダイアログの意味さえ超前向き・超Gentleに変換してしまう。真顔で怒鳴りあっている人々に使用すると、かなり笑える。

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<失望させたのに。愛>
2007-04-25 Wed 11:58
Oh Lord You’ve searched me
ああ、主よ。あなたは私を調べました
You know my way
あなたは私の道をご存じです
Even when I fail You
私があなたを失望させた時も
I know You love me
あなたは私を愛してくださいました

「At the Cross」というゴスペルの、歌い出し部分(詩篇139意訳)。そう、それはシンプルに、美しく。私がこのブログで、繰り返し話させて頂いている、神さまの大いなる愛を表現しています。

<私があなたを失望させた時も>
最近妻とケンカしました。二人の将来像、日本での活動をようやく始められる。そのきっかけに、ようやくその晩辿りついたのに。収益構造のこと、また日本語が不自由な妻(台湾人なので)の「居場所」「役割」ということで、バトル再燃です。

ケンカの理由は、下らないんです。いつも通り、私が気にも留めない、些細なこと(と私は強く思う)を、妻が拾って具だ愚だいう訳です(愚痴、聞いてやってください)。感情的になり、夫を個人攻撃し、しまいに口も利かなくなる妻に、こちらも切れます。ね、まるでガキのケンカだ。

その後双方ふて腐れ、冷戦時代が続くのですが、その時の何とも嫌な気分。自分が嫌いになるほど下らない、男の沽券やらにこだわっている自分がいます。
そんな時、拙ブログで話していることが、そのまんま自分に跳ね返ってきて、「赦しなさい」「あなたの敵(=妻です)を愛しなさい」「愛は寛大で、愛は親切です…」などと内側の声に言われると、余計へこむ訳ですね。今すぐそうできない自分の、器の小ささに。

<怒りの毒>
そう。神さまのことばに親しむと、小っちゃな問題でへこんだり怒っている自分に、辛くなるときがあります。そこから早く出よう、というプレッシャーなのか。単に自己嫌悪レベルが倍増なのか。

内に抱えた怒りの毒が、下らないことで、更に苛立たせてくれます。
車がこちらに向かってくる。「早すぎる、殺す気か」とムカつく。
通過待ちの車が、遅すぎる。「チンタラ走んな、ボケ」とムカつく。
車が停まっていると、「こんなとこに停めて、俺さまの邪魔をするな」とムカつく。

そう。ちっぽけな私。あなたを失望させまくってますね、神さま…。
口で偉そうなことを言おうと。職場で表面を取り繕おうと。
私の心のざわめきも、あなたは全てご存知ですね…。

<あなたは私を愛してくださいました>
しかし、私たちの主、イエスキリストは、こう言っています。
「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい(ヨハネ15:9)。」と。

主よ。あなたは、弱くてちっぽけな私を切り捨てず、私の咎を責めずに、愛してくれました。背を向けて、八つ当たりし、ふて腐れる私を「愛に留まりなさい」と励まし、その手で引き戻してくれました。


私は一人ではない。
感情の底でも、私は確かに、主の優しさと赦しに満ちた愛を、感じることができるのだから。

「主よ。私は信じます」

いつも応援感謝しています。
あなたのひとポチで、より多くの方が導かれ
愛と平安を見いだすことができますように。
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2007-04-24 Tue 21:15
コロンボはペターの繁華街で、バスを待っているとき
みにくく、太ったおばさんが、歩いてくるのが見えました

しわがより、日に焼けた黒い顔。髪はちじれ、白髪が混じっています
服も貧相で、その手には大きな買い物袋が
そして、もう片方の手には、年端もいかない娘の手が
握られていました


その年月のにじみ出た、しかめっ面は
しかしわが娘を車や、他の通行者から守ろうと注意を配り
その背中は屹然と、人としての道を示しています
そして娘の手をにぎる、大きく強い手は、暖かい

母よ。あなたの存在は
世界共通で偉大です

母よ。あなたの存在は
娘にとって、世界で誰よりも、大切なのです

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主の福音 第二章 第一節~第八節
2007-04-23 Mon 22:27
主の福音 <The Good News> 朗読

今日は第二章 第一節~第八節までを読みます。

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世界を照らす火 Go Light Your World
2007-04-23 Mon 18:13
いいゴスペルありました。もちろん共有させてもらいます。

Go Light Your World
世界を照らす火

There is a candle in every soul.
私たちはこころにキャンドルを持っている
Some brightly burning some dark and cold
あるキャンドルは明るく燃え、またあるものは火が消えて久しい
There is a spirit, who brings a fire
その火は、聖霊からの贈りもの
Ignites a candle, and makes his own.
聖霊が火を点すと、キャンドルは明るく輝く

Chorus

Carry your candle, run to the darkness
その火を持って、暗やみへ向かえ
Seek out the hopeless, confused and torn,
こころが砕け、混乱し、挫けた者に
Hold out your candle for all to see it
あなたのキャンドルの火をかざせ
Take your candle, go light your world.
あなたの火で、世界を照らせ
Take your candle; go light your world
あなたの火で、世界を照らせ

Frustrated brother, see how he’s tried to
不満だらけの彼は、様々な方法で
Light his own candle, some other way
自分のキャンドルに、火を点そうとしてきた
See now your sister, she’s been robbed and lied to
騙され、利用された彼女は、
Still holds a candle without a flame.
火の消えたキャンドルを手に、立ちすくんでいる

Chorus

Carry your candle, run through the darkness
その火を持って、暗やみを駆けろ
Seek out the lonely, the tired and worn
孤独で、疲れ、膝を抱える者に
Hold out your candle, for all to see it
あなたのキャンドルの火をかざせ
Take your candle and go light your world,
あなたの火で、世界を照らせ
Take your candle go light your world.
あなたの火で、世界を照らせ

We are a family, whose hearts are blazing
私たちの胸で、その火は燃える
So let’s raise our candles light up the sky
さあ、キャンドルを高く上げ、天空を照らそう
Praying to our Father, in the name of Jesus,
イエスの名によって祈ろう
Make us a beacon in darkest time
私たちをこの暗やみの世の、光としてくださるように

Chorus

Carry your candle, run to the darkness
その火を持って、暗やみへ向かえ
Seek out the helpless, deceived and poor
裏切られ、助ける者もなく、貧しい人々に
Hold out your candle for all to see it
あなたのキャンドルをかざせ
Take your candle and go light your world
あなたの火で、世界を照らせ

Carry your candle, run to the darkness
その火を持って、暗やみへ向かえ
Seek out the hopeless, confused and torn,
こころが砕け、混乱し、挫けた者に
Hold out your candle for all to see it
あなたのキャンドルの火をかざせ
Take your candle, go light your world.
あなたの火で、世界を照らせ
Take your candle; go light your world
あなたの火で、世界を照らせ

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「立って、歩きなさい」
2007-04-23 Mon 16:20
聖書から一つ、例を挙げましょう。
「ユダヤ人の祭りがあるとき、主イエスはエルサレムに上られました。エルサレムの羊の門そばには、癒しのご利益があると信じられているベテスダという池があり、その周囲には大勢の病人、盲人、足なえや、やせ衰えた者が伏せっていたのです。

その中に、三十八年もの間、病気にかかっている人がいました。キリストは彼に目を留めて、『良くなりたいか。』と彼に尋ねました。すると、病人は訴えて、『主よ。私には、水がかき回されたとき、癒しの池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もう他の人が先に降りて行くのです。』と答えます。

そこでイエスは彼に言いました。『起きて、床を取り上げて歩きなさい。』
すると、その人はすぐに癒され、力を取り戻して、寝ていた布団を取り上げて歩き出したのです(ヨハネ5:1~9意訳。)」

私たちは誰でも、人生の中でつまづきます。
学校中退。離婚。家庭不和。破産。リストラ。挫折。友の嘘、裏切り。病気。借金。

しかし、主イエスキリストはこう言っています。
「立ちなさい。そして、歩きなさい。」と。

それはつまり、あなたが「病気」でも、「障害」でも、「スランプ」でも、「落ち込んでて」も。

「元気を出して、正々堂々と、人生と向き合いなさい」と言うことに他なりません。

そして、人生の暗やみには、「明るく、前向きに生きる姿勢」は大きな効果があるものです。

なぜなら、病も、障害も、お医者さんが言うように、一生直らないかもしれないけれど。
あなたは、変わることができる。心の平安と幸せを、もう一度取り戻すことが、必ずできるからです。

その為に、上記主イエスのことばを、ただ信じて、それに従って生きてください。

そうすれば、「彼らは信じた。それゆえに行なった。それが彼らの義と認められた。」と聖書にあるとおり。あなたの信仰は必ず神さまに届いて、あなたを癒し、幸福にしてくれるからです。

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ニゴンボ、続き
2007-04-22 Sun 20:10
そう祈ってから、雨が小降りになったので、ちゃっかりニゴンボへ行きました。

遠距離バスの出発駅である、中央バスターミナルに向かう途中、大勢の兵士・警官たちが、検問に駆り出されているのが見えます。ここスリランカが「戒厳令(State of Emergency)」下にあることを、改めて思い出させられる光景でした。

その内乗っていたバスが、ゴールフェイス沿いの検問で止められ、乗客は全員下ろされました。各人身分証と荷物のチェック、また車内は兵士が入り込んで、不信物を確認します。その時、私はパスポートのコピーを忘れたことに気付き、何とか笑顔と名刺でごまかしました。その後、別れ際に「ご苦労さま。新年おめでとう」と言うと、片言の英語しかできなかった兵たちが、太い笑顔で応えてくれました。


私の長兄も、海上自衛隊なので分かるのですが、祝際日で家族が集い、喜ぶ中、彼らは勤務を余儀なくされます。皆が歓談し、美味しい料理に舌鼓を打っているとき、彼らはこの土砂降りの中で、濡れた靴と重い装備に耐えながら、検問所に立っているのです。

市民の安全を守るため、いつもより厳重な警備で、一体何人の兵が駆りだされ、一体どれほどの家族が、不安で、寂しい思いをしているでしょう…。そんな兵士が、実に世界中に、存在するのです。

だから、祈りましょう。あなたの祈りも、貸してください。
ここスリランカの、去年8月から本格化した内戦で、命を失った方、約 名。
その家族、約 名のために。
そして今も最前線で、己の命を盾に、互いの民を守ろうと戦っている、名もない兵士たちのために…。

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争いを止めるために、雨はふる
2007-04-22 Sun 18:08
スリランカでは、仏教を国教としており、通常の1/1新年と、4月13日の仏陀がらみの新年があります。

めでたいばかりではありません。そうした人々が移動するタイミングを見計らって、LTTE(タミール系反政府軍)によるテロ攻撃があるのでは、と在ス日本大使館から警告が来ていました。だから、人の集まるようなところは避けよ、と。

しかし、せっかくのまとまった休日ですし、ごとう家は12日から1泊で、コロンボの北約35km、ニゴンボという海沿いの町に旅行する予定でした。


しかし、当日朝になって、突然の大嵐です。雷と雷鳴が轟き、遠足には「あら、これはNG」と誰もが思う、そんな瞬間でした。
「何だよ、ちッ」と舌打ちしつつ私は、ドアを全開で降りしきる雨を見ていたのですが、突然その意味が理解できました。


その雨は恐らく、クレイモア地雷を渡され、死地に向かうLTTE隊員や、武装したスリランカ軍兵士の足も、止めただろうと。
つまり、一人の死者も出さないように。
この世に憎しみが、これ以上増えないように。


こう話すのは、単に神への言いがかり(?)かもしれません。
しかし、現実に仏正月には、何の刃傷沙汰も起きませんでした。


神よ。あなたに感謝します。
あなたの平和と、友愛と、慈しみが
民族の違いを超えて、一つの国、スリランカに示されますように。
私たち人間にできないことが、
主よ。あなたにはできます。

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主の福音 第一章 第一節~第四節
2007-04-21 Sat 16:50
主の福音 <The Good News> 朗読

今日は第一章 第一節~第四節までを読みます。

(「主の福音」、また冊子については、主の福音 <はじめに>をご覧下さい。また「続きを読む」内にテキストもあります。)

主の福音 第一章 第一節 を聴く (1787.3K)

主の福音 第一章 第二節 を聴く (2014.7K)

主の福音 第一章 第三節 を聴く (2014.7K)

主の福音 第一章 第四節 を聴く (2014.7K)

*上記クリックされますと、MSメディアプレーヤーなどのソフトが起動し、音声を聴くことができます(右クリック→「別のタブ/ウィンドウで開く」がお勧めです。)

それでは、ごゆっくりお楽しみください。

ごとう ひでたか 拝

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主の福音 <はじめに>
2007-04-20 Fri 22:10
主の福音 <はじめに> を聴く(1952.1K)

<はじめに>

「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。
造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。
この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。
光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。

すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。
この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。
この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。

しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、
神の子供とされる特権をお与えになった。(ヨハネ1:1~5、9~12)」


上記の一節は、この不安、混迷と暗やみの現代社会を生きる私たちにとっても、真理であり、希望の光です。

人類の歴史で、聖書ほど愛され、また憎まれた本が、あったでしょうか。誤解され、時に禁書とされ、燃やされて、しかし現在も世界中で読まれている本。世界中の言語に翻訳され、引用され、今日も議論されている本。

多くの魂に触れ、涙をぬぐい、人生を感化し、またたくさんの自殺未遂者の命を救ってきた本。


そう、これは本屋に並んでいるただの本と違い、あなたの人生を変えうる一冊なのです。


しかし、聖書は読解が難しい本でもあります。ただ最初のページから、最後まで読んだとしても、その深い意味を理解することが困難なのです。またそのボリュームの前に、途中で挫折する方も多いのではないでしょうか。

ですから、この小冊子は、その聖書の一部、恐らく一番重要な一部にのみ焦点を当てて、作成されました。


つまり、<主イエスキリストの人生と、そのメッセージ>についてです。


そして内容は、「これまでキリスト教に全く触れたことがなく、聖書も読んだことがない」という方を念頭において編集されています。四冊の福音書のエッセンスを抽出、分かりやすさを最重要視し、(筆者の独断と偏見により)構成を簡素化しました。

難しい宗教の解説書や、学術書ではなく、この「Life-Changing Book」聖書への招待状として。

「主イエスに学んで、人生を幸せに生きるためのガイドブック」として。また気軽に読める、こころの栄養剤として。


「仕事も順調、モノもカネも人並にあるし、人生満足してる」
「毎日忙しくて目が回りそう」
宗教に頼るほど、私ゃ落ちぶれちゃいない」


そんなあなたにぜひ読んで頂きたい。そして家族・仲間と共有して頂きたい作品に、仕上がったと思います。

読後にもし興味が芽生えましたら、ぜひ聖書を買い求め、また教会に足を運ばれてみることをお勧めします。

それでは、始めましょう!!

ごとう ひでたか 拝

→こちらから主の福音 冊子
主の福音 をダウンロードする (pdf、1490.2K)

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冷めた心
2007-04-20 Fri 15:59
最近の殺伐としたニュースを聞いて、「そうなの」「へぇ~」と終わってしまっていませんか。

「小六の生徒自殺」「母親が実の子どもを殺める」「車両事故で幼稚園児が15名死亡」…。

突然の惨劇。被害者、加害者はもとより、その家族、親類に至るまで、その人生を180度、変えてしまう事件…。行き場のない恨みと怒り、後悔、自責の念が走ります。


そんなニュースをテレビで見ただけでは、「またか」なんて思いこそすれ、ご遺族や、その周囲で悲しんでいる人の気持ちなど、汲み取れなくなってます…。「他人の痛みを、自分の痛みのように感じる」なんて、無理。起きちゃったものは仕方ない。他人事にはとことん無関心。ドライでクール、都会じゃそうやっていかないと、気が狂うでしょ。


そう、ある日、私たちの身近で、肉親の一人が。知人の一人が。同じような事件や、事故に巻き込まれないと、私たちは実感が湧かなくって。こうして、知らず知らずのうちに、心が鈍く、冷たくなっているのかもしれません。

だから、忘れないで下さい。他人の苦しみ、痛みを。
だから、彼らのために祈りましょう。

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日本人が「武道」の根底に求めているもの
2007-04-19 Thu 21:07
私が空手を始めたのは17歳の頃、1990年のこと。江東区の町の道場で、週3回通っていました。
なぜ空手か?と言われると、恥ずかしい話ですが、私は中学の頃陸上部で、逃げ足は速かったのです。しかし肩幅が狭く、腕っぷしも細くて、見るからに弱そうな自分に、絶大なるコンプレックスを持っていました。

また、そこそこ悪い男子高だったので、「ケンカに強くなる」ということが不可欠なことのように思えていました。いじめられた時にやり返せるように、またクラスのOOにだけは負けないように、とか。そこで、強くなりたい=空手。今考えると、何とも情けない、下らないモチベーションです。


しかし、その動機は不純でアホでも、色々な面で武道は私を育て、教えてくれました。

単に肉体の鍛錬だけでなく、弱音ばっかりの自分を追い込むこと。特に試合なんていうと、とてつもないプレッシャーです。区大会・都大会など、機会を見つけては先生が「ごとうも出場るよね、試合。」みたいに振られるのを、断ったら何か逃げたみたいで恥ずかしい。というこれまた情けない理由で受けてしまい、強化練習を経て、出場るわけです。

そして、これはスポーツ経験者なら誰でもそうだと思うのですが、一旦「始め!!」てしまえば、つまり開始の笛やゴングが鳴ってしまえば、スイッチ入って凶暴化するのですが、それまで何ともいえない不安と緊張に苛まれるわけです。その始まる前の時間がどれだけ嫌だったことか。

全盛期の戦績をみても、私は決して強くありませんでした。しかし、空手は私に楽しい思い出を与えてくれました。趣味が高じて、米留学時もテコンドーと空手を掛け持ち、たくさんの友人に巡り合いました。また、社会人になってからも、神田の極真舎道場で汗を流し、素晴らしい人たちと一緒に練習に励むことができました。初まりは弱っちい動機でしたが、私も終始一格闘家として、「強くなる」「武道とは」と言うことを自分なりの考え方で追求してきたつもりです。


<一流の武人たち>
そんな武道について、最近面白い記述を読みました。
合気道の達人、塩田先生は生前、弟子から「最強の武道家はどういうものか」と聞かれて、「自分を殺しに来た人間と、友達になれる人」と答えたそうです。

思えば、フルコン空手の極真舎の道場訓も、こう言っていますね。「ひとつ、われわれは」から入る、極真の求める理想の姿です。

一、吾々は心身を練磨し、確固不抜の心技を極めること
一、吾々は武の真髄を極め、機に発し感に敏なること
一、吾々は質実剛健を以って、克己の精神を涵養すること
一、吾々は礼節を重んじ、長上を敬し粗暴の振舞いを慎むこと
一、吾々は神仏を尊び、謙譲の美徳を忘れざること
一、吾々は知性と体力とを向上させ、事に臨んで過たざること
一、吾々は生涯の修行を空手の道に通じ、極真の道を全うすること

要約すると、空手修行の目的は、自分の身体と心を鍛えることであり、稽古に打ち込み、集中することで、臨機応変な対応力、どんなことにも動じない心を修得すること。また、他者に対する理解、思いやりと優しさを忘れず、礼儀を重んじること。「自分の強さを誇示したい」という自我(エゴ)を制し、暴力を慎むこと。

神仏と、自然の摂理を知り、その偉大さの前に自分の矮小さを想い、謙虚になること。生涯をかけて、人格の完成を目指して努力すること。ということです。


<武道とイエスキリスト
何か聞いたことあるような…。

そう、主イエスキリストのメッセージです。武の根底に流れ、武道家がその辿り着くべき目標として、日々稽古しているもの…。この全く異なる二つには、しかし驚くべきほど多くの共通点が見られるのです。

武道(精神と肉体の鍛錬)を通じて、私たちが求めているもの。
●何事にも動じない、不動心
●稽古や試合にて、怪我や死をも受け入れる潔さ
●相手を尊敬し、思いやる心。礼、謙虚さ
●自分のエゴ・弱さに克つ、克己心
●そして、「自分の敵を友とする」度量

それは、主イエスキリストに従うことで、私たちが得ようとしているものに酷似しています。
●この世の空しさを知り、執着しない心
●「わたしの願いでなく、あなた(神)のみこころのままをなさってください」と言える、潔さ
●相手を尊重し、彼の立場に立って考える力。泣く者と共に泣き、喜ぶ者と共に喜ぶこと。
●自分の中にある罪(自我)にうち勝つための力
●そして、「自分の敵を愛し、自分を憎むもののために祈る」度量

これらは全て、この艱難に溢れる世を、立派な一人の人間として、幸せに生きるための知恵です。だからこそ、「武の完成は、愛と信仰をもってなる」と思わされるのです。

<結論>
ですから格闘家、武術家の皆さん。もしあなたが、「強さ」の完成だけでなく、「武」の完成を求めるなら、愛を知りませんか…?全く別の方向から、全く新しい展望は啓けるのですから。

そして愛を知るには、神さまがまず「そのひとり子である、主イエスを与えてくださったほどに、私たちを愛された(ヨハネ3:16)」のを知ることです。

「しかし、いま聞いているあなたがたに、わたしはこう言います。
あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行ないなさい。
あなたをのろう者を祝福しなさい。あなたを侮蔑する者のために祈りなさい(ルカ6:27~28)。」

「愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。<中略>
愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです(Iヨハネ4:7~8)。」
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トーマス先生のクラス
2007-04-19 Thu 16:15
ロサンジェルスの州立高校で。ここでは、3年生のAからGまで7クラスあり、その中のG組はいわゆる「落ちこぼれ」「不良」たちが押し込まれるクラスで、やせて大人しそうなトーマス先生が担任でした。

そこに、Aクラスから指導を受けて、スティーブが転入してきました。体育会系の、マッチョな不良で、教師に楯突いたということでG組に「落ちて」きました。

そんな彼に目を留めて、トーマス先生はある放課後、スティーブに声をかけます。「スティーブ、君は腕力に自信ありだね。腕立て何回できる?」するとスティーブは「100回2セットは楽にできます」と答えました。

「じゃあ、10回ずつ、3百回はどうかな」そう聞くトーマス先生に、「やったことないから分からないけど、多分できるんじゃないですか」と答えるスティーブ。
「分かった。今度の金曜のクラスで、やってくれるかい?」「やってみましょう。」そう約束して、二人は分かれたのです。

さて、金曜日がやってきました。スティーブはタンクトップにジーンズで、柔軟をしています。そこへ、トーマス先生がドーナツの山ほど入った袋を抱えて、やってきました。そして集まった生徒たち、一体何が始まるんだと興味津々の若者たちに、こう言いました。

「さて、今日はスティーブがみんなのために腕立てをしてくれる。10回するごとに、このドーナツを君たちの内の一人に上げよう。じゃあスティーブ、始めようか。」トーマス先生はそう言って、おもむろに最前列のシンシアを指差して、言いました。「シンシア、ドーナツ欲しいかい?」

小さく頷く彼女に、トーマス先生、「スティーブ、シンシアのために、腕立て10回頼む。」
1、2、3、4、5、…。きっちりあご先を床につけて、余裕のスタートです。
「じゃあ次だ…。マーク、ドーナツは?」「下さい。」「スティーブ、マークのために、腕立て頼む。」
1、2、3、…。「次、ジェイソン。」「次マリー。」「次クリス。」…。

その次は、ラグビー部キャプテンの、リチャードの番でした。「リチャード、ドーナツ欲しいよね?」と聞くトーマス先生に、リチャードは返して「欲しいですが、腕立ては自分でやります。それでなければ、いりません。」しかしトーマス先生は受け入れません。逆に「スティーブ、リチャードがいらないと言ったドーナツの為に、10回頼む。」

そんなこんなで、26セットほど完了しました。スティーブの額には汗が光り、タンクトップは胸元が濡れて、腕も痙攣を始めました。その頃には、生徒たちは次々と「先生、スティーブが可哀想」「ドーナツはいらないから、止めさせてください」というムードになっていました。中には泣いている女子もいます。にもかかわらず、トーマス先生は相変わらず、「スティーブ、デビッドがいらないと言ったドーナツのために、10回お願い」とスティーブを促します。床で座って荒く息をついていたスティーブは、再び腕立てを開始します。

スティーブの身体が上下するたび、応援の声が響きます。10回終わると、みんな大きなため息をつきます。そうこうする内に、アンソニーが遅刻してクラスに入ってこようとすると、トーマス先生が嬉しそうな顔をしたのを察して、クラス中が「アンソニー、入ってくるな!!」「外で待ってろ!!」と制止しました。何だかわけが分からない顔をして、アンソニーはドアに顔をつけるようにして、中の様子を見ています。

そして、G組最後の一人、ジェーンの番がやってきました。アンソニーはまだ外にいますから、合計32名。32セット目の、腕立て伏せです。スティーブはその前のセットが終了してから、床に倒れたままでした。

「さあ、ジェーン、君で最後だ。ドーナツ欲しいですか。」
「先生、もう止めさせて下さい。スティーブだけが、こんな目にあって可哀想です。私ドーナツなんていりません。」そう言って泣くジェーンに、穏やかに微笑んで、しかしトーマス先生は告げます。

「スティーブ、ジェーンがいらないと言った、ドーナツのために10回!!」

疲労でパンパンになった、震える腕で、なおスティーブは腕立てを続けます。クラス中が見守り、応援し、カウントダウンしています。8、…9、…そして10回!!

そのまま仰向けに倒れたスティーブに、ひざまずいて優しく声をかけながら、トーマス先生は続けて言いました。

「私たちの主、イエスキリストも、このスティーブと同じく、やるべきことを全てやって、疲れ果てて、十字架の上で死んだんだよ…。主イエスから、ドーナツ(まことのいのち)を受け取る人間もいた。しかし、自分でそれを拒んで、受け取らない人間もたくさんいたんだ。」
そして、生徒たちに、主の尊い犠牲と、互いを愛し合うことの大切さを教えたのです。

未体験の腕立て320回に挑戦したスティーブの話は、そこでおしまいです。

しかし、主イエスの物語は、彼の死で終わらなかったのです。

なぜならそのお陰で、私たちの今日があります。彼の死後約2000年が経った今、教会は世界中にあり、キリストにあって兄弟姉妹たちが集い、たくさんの人に福音(Good News)が伝えられています。そして今日このように、このブログに行き当たって、記事を読んでくれているあなたがいます。

そう。主イエスは、肉の死の3日後に復活され。
そして今日も、私たちの中にいらっしゃるのです。

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目の前に広がる知識の大海
2007-04-18 Wed 16:12
コロンボより北に約35km、国際空港に程近い観光地、ニゴンボでのこと。シンハラ正月のため、取れた休暇でバケーションに行きました。そして海岸線沿いの安宿のカフェでコーヒーを飲みながら、目の前に広がるインド洋、そして定番のヤシの木、犬、リス、その他もろもろの自然を眺めていました。

しかし考えてみると、例えばこのココヤシ一つとっても。塀の上で腕立てしている、カメレオンも。目の前の海も、その濡れた砂地に生息するカニや貝類についても。カタマラン(帆船)の操船術も、地元民が話す言葉も、そして、彼ら一人ひとりの人生も。

それぞれ本が一冊、いや物によっては何冊も書けるほど、奥が深いものです。

私たちは、自分の興味の向く方向に集中して、専門分野への知識を深めます。そして、その道の第一人者と言われるような方であれば、とことん突き詰めてそれが人生の一部になるほど、磨いて高められていることと思います。そして、「分かった」「理解した」「私すごい」「さすが俺」と叫ぶのです。

しかし、周囲を見渡してみると、私たちが知らない事が、一体どれほどあるでしょう。上記のように、私はカメレオンのことなど、「目が変(*両眼が独立して動く)で、色が変わるんでしょ」程度しか知りません。彼がいかに短い体と尻尾を持ち、他のスレンダーなトカゲ類に比べてみっともない姿をしているのか(最初ネズミかと思いました)。なぜ腕立てしているのか(*擬態の一種なんでしょうか、やっぱり)。なぜ目が変なくせに、15mtも先から人間が接近しているのを察知するほど、視力に優れているのか。

また、ココナツの生態(なぜ地下水が塩水なのに生息できるのか);その実の効用、調理法、丈夫なロープができるほど強い、繊維の取り出し方。その大きく強い葉の利用法、乾燥→編み方、簡易シェルターの組み方など。

考えてみると私、正直、何も知りません。目に映るものだけでも、こんな体たらく。なんて無知なんでしょう。

神の造られた自然は、そのふところを開いて、いつでも私たちを受け入れてくれます。そして、興味をもってその世界に少しでも触れるのなら、更に大きな秘密を明かしてくれるのです。しかし、知れば知るほど私たちは、自分がいかに矮小な存在で、無知なのかを思い知らされますね…。

「目の前には手も触れられていない真理の大海原が横たわっているが、私はその浜辺で貝殻を拾い集めているに過ぎない。」アイザック・ニュートンが言ったとおり。自然は、私たちを謙虚にしてくれます。

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<Q7. イエス・キリストの十字架の死と復活の意味って?>
2007-04-17 Tue 16:08
<Q7. イエスキリストの十字架の死と復活は、何を意味していますか。>

十字架はキリスト教のシンボルです。しかし、考えてみるとそれは当時の処刑の道具であり、中でも最も苛烈な痛みを伴うもので、極悪人にのみ使用されていました。なぜ、人々の傷を癒し、盲人の目を開き、死者を復活させ、数多くのことばで人々に救いを与えた方が、そんな極刑に処せられなければならなかったのでしょう。

主の言動と、奇跡のわざとが、当時のユダヤ人指導者たち――権力と富を我が物にしていた階級――の妬みと、危機感を引き起こしたから、最終的に法廷に引き出され、処刑宣告をされた。それが、この世的な解釈です。

しかし、主が十字架の死を甘んじて受けられたことの真の意味は、この世に救済をもたらすためだったのです。
それは、主イエスの死の約800年前に、預言者イザヤを通して語られた言葉にある通りです。

「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。
だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。
彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた(イザヤ53:4~5)。」

また、

「しかし、彼を砕いて、痛めることは、主のみこころであった。
もし彼が、自分のいのちを、罪過のためのいけにえとするなら、
彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。
かれは、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。<中略>
彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする(イザヤ53:10~12)。」とある通りです。


そう、主は自分のいのちを捧げて、私たちに伝えようとしたのです。

死の恐怖。失敗の恐怖。批判の恐怖。否定の恐怖。そんな物に手足を縛られ、囚われるのでなく。自分本来の価値(神の目に尊い、あなたの価値)に気付き、あなたの光で暗やみを照らし出すようにと。

この世の価値観によってでなく、もっと高い目線で物事を見、判断し、生きるようにと。
そうすることで、私たちが心の平安を得、現状の良し悪しにかかわらず、幸せに、希望に満ちた人生を送ることができるようにと。


ユダヤ人たちは、ヤギや羊などの生贄の血で、自分たちの罪の贖いを立てていました。

しかし、私たちキリストの従者は、主イエス本人の血――その生涯に罪を見出すことができない、きよい者の血で、自分たちの罪を贖われたのです。それは、あなたが何か偉業を成し遂げたから、とか、何人救ったからその報酬に、と言うわけではありません。

ただ、神さまの愛と恵みによって、見返りなど求めずに、与えられたいのちなのです。

それは聖書にも「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである(ヨハネ3:16)。」とある通りです。

あなたを愛して、あなたを支え、救うために。神が示してくださった愛に、あなたはどう応えますか。

そこで出されるあなたの答えが、主イエスキリストが十字架で死なれ、復活されたことの、意味なのです。

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<Q6. 洗礼を受けて信者になったら、罪を犯さなくなるのでしょうか>
2007-04-16 Mon 16:05
<Q6. 洗礼を受けて信者になったら、罪を犯さなくなるのでしょうか。>

「はい。私は洗礼を受けてから、何一つ罪(過ち)を犯していません。完璧に、きよいです。神さまに選ばれたエリートとして、自負を持って生きてます。誰からも非難されることなどありえませんから。」

そう言うようになったら、私はクリスチャンとして、人間としてお終いだと思います。葛藤と苦悩、劣等感などに溢れた周囲を見下し、自分をあたかも聖人のように演出するのは、神さまと自分に正直な人には、できない芸当でしょう?

どれだけの年月をかけて、わが身を叩いて従わせても、心の中の敵に翻弄されない人など、残念ながらいません。だから、洗礼を受けていようといまいと、罪は犯します。

そして人は、どうやってもバレる状況でも、隠蔽(いんぺい)しようとがんばったり、誰か別の人に責任転嫁しようとします。往生際悪いです。あがいて、更に傷口を深め、人間関係を壊し、事態収拾に必要な貴重な時間を浪費します。

しかし、主イエスの生き方に触れ、その赦しと愛を学ぶと。自分の過ちを潔く、認められるようになるのではないでしょうか。そしてすぐに、失敗の瓦礫の中から、再利用できる資材を拾い集められるようになるのでしょう。

「ごめんなさい、それ俺でした。」と素直に謝って、「OOとXXをします。それで被害は最小限に抑えられるはずです。」と、即解決に動けるようになるのです。

そして、「他人から自分の失態について、どう思われるか、何を言われるか」という恐怖の代わりに、「神さまは全てをご存知だ。私の過ちも、そして悔い改めも。」という、深い心の平安を手に入れられるのです。

ですから、信仰に入った方でも罪は犯します。失敗も、過ちも、仲たがいもします。

しかし、その後の対応が、大きく変わってくるはずです。

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<Q5. 罪とは何ですか>
2007-04-16 Mon 13:57
<Q5. 罪とは何ですか。そして、神はなぜ人間を、罪を犯さないように造らなかったのでしょうか。>

この社会で言う罪とは、「殺人」や「強盗」、「業務上過失致死」「収賄」などなど、法律が悪と定めたものです。それに対する刑罰も刑法で定義されています。

それに対して、私たちが「罪」と呼ぶものは、こうです。
「自分が神であるかのように『この世を思うままにしたい』という願望」

それは、例えば事業が予定通りに進捗しないことへのストレス。上司が事業計画を握りつぶし、お蔵入りさせたことへの怒り。彼氏が自分のために時間を取って、話を聞いてくれないことへの不満。鬱屈した思いを、なぜ親/他人は分かってくれないのか、という憤り。なぜ世界が「Better Place」ではないのか、という失望…。

自分の意見を振りかざし、周囲が従わなければ逆上し、暴力を振るい、ヒステリックにわめき散らす。そんなある種、駄々をこねる子どものような想い。それが、私たちの呼ぶところの「罪」です。

そして、そんな不遜な想いが結局、家庭不和、不倫や、児童虐待、いじめ、嫉妬などという「不幸」につながるのです。

<与えられた選択肢>
神さまは、なぜ私たちしもべが、罪を犯さないで正しく生きるように、創らなかったのでしょうか。なぜ「罪を犯す」「闇を愛する」選択肢まで、与えてくれたのでしょうか。

例えば、私たちが神さまの指示通りに動き、何でもインプットされたことをこなす存在だとしましょう。まるでロボットです。最近の癒し系ロボット犬は、プログラム通り、あなたの傍にいて、0と1でもってあなたに気遣う――フリをしてくれます。そして家の中で粗相(小とか、大)はしません。夜半に吠え出したり、カーペットをかじったり、靴を隠したりもしません。ベッドの上に寝てみたり、家の中に泥足で入ってしまったりなんて、論外です。

でも本物の犬には、こんなトラブルは日常茶飯事ですよね。

同様に、人間も悪さをしますし、道から外れて遠く迷い出てしまいます。しかし、そんな「本物の」人間だからこそ、神さまは私たちを愛して下さっています。
長いさすらいの後で、私たちが神の愛に行き着いて、神さまの御許に帰って来ること。そして強制されてではなく、自分の本心から、「主よ。私は信じます」「私はあなたを、愛しています」と、言えるようになること。それが、神さまが私たちをロボットにしてしまわなかった、最大の理由だと思います。

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<Q4. 神といっても、結局は人間の考え出したものではないでしょうか。>
2007-04-15 Sun 16:08
一見「卵か鶏か」の議論ですが、それは「人間 ― 神」ではなく、「人間 ― 宗教」のことのように思います。

人は弱く、自分より大いなる存在に、すがりたい、救われたい、と願います。なぜなら、私たちの人生には不安があり、未来は誰にも読めないからです。また、私たちの旅路の最後には、避けられない結末――死が、待ち受けているからです。
だからその死の恐怖や、将来への不安からの救済を得ようと、人々は「宗教」を作りました。確かに、仏壇やお寺と同じように「宗教」は人が作ったものです。

<目を高く上げて>
しかし、この世界を見てみましょう。私たちを取り巻く環境は、一流の科学者たちをして「人類の想像を絶する意思」「偉大なるデザイン」を垣間見せるのです。地球という、超危ういバランスの上に成り立っている、奇跡の星。DNAという糖と核酸(=うまみ成分?)の組成に、刻み込まれた生命そのものの歴史。水という非常に特異な物質がつかさどる、生物の営み。現代医学が見放した患者を、信仰が癒したケースもあります。

知れば知るほど、先があるのです。理解を深めれば深めるほど、底が見えないのです。それはニュートンをして、「目の前には手も触れられていない真理の大海原が横たわっているが、私はその浜辺で貝殻を拾い集めているに過ぎない。」と言わしめた、この世界のふところの深さです。

それは何億分の一、何兆分の一という確立で、偶然できたものでしょうか。この星。この時代。そして、今こうしてこのブログを読んでいる、「あなた」という存在。

そこに私たちは、単なる運でなく、何かもっと大きな「力」の働きを感じるのです。それが、私たちが「神さま」と呼ぶ方。実際に見たことはないけれども、その手のわざを見て、その存在を確かに感じている方だと、言えるのではないでしょうか。

雄大な自然の中に、あなたは何を見ますか。春の、成長のエネルギーに満ち溢れた山に。海の怒号に。あの田舎で見た、満天の星空に。あなたが確かに、身近に感じている「何か。」それが神さまです。

そして、神さまの存在は人類が誕生する以前から、天地に存在する万物によって感じられ、賛美されてきました。私たちの身の回りに、それを証言するものがいかにたくさんあるか。それに気付くとき、私たちは「宗教」でなく、本当の「神さま」を知るのです。

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<Q3. なぜキリストでなければならないのですか。>
2007-04-14 Sat 17:04
仏教、神道、イスラム教、ヒンズー教、そしてキリスト教。宗教の線引きはそれこそ山ほどあります。私も、「神は人を造った。人は宗教を作った。」という言葉が好きで、他宗教を批判し、自分たちは選民(選ばれたエリート)だと言うような一部の人々の浅はかさを、嫌っていました。

また、人間の根底にある「自然やいのちへの感謝」「自分より大きな存在への望み」という意識は、ムスリムであろうと仏教徒であろうと変わりないことから、いつかどの道でも、研鑽していけば到達できるのでは、と考えていた時期もありました。

しかし、そんな私に神さまは言いました。「わたしの目にあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」と。
万物創造の神さまの目に「高価で貴い」人間に、研鑽して辿り着ける自信は、はっきり言って自分にはありません。ならばそれは、私が自分の努力や成功で得たものではなく、ただ神さまの情けと恵みによって与えられた、無償の愛です。

<世界の「宗教」が伝えること>
「私たち(神々)もあなたたちと似て、ドロドロなのよ」という開き直り型、「こうせよ、ああせよ」「これはするな」という指示出し型、「嘘つきは舌を抜かれる」「罪人は針地獄、炎熱地獄、その他もろもろの地獄へ落とされる」というペナルティー重視型の神々はたくさんいました。しかし、欲とエゴと見栄と弱さに溢れた自分を、「愛している」と言ってくれた神さまに、私はこれまで会ったことがありませんでした。

私はもともと(日本人なら大半が、と思うのですが)葬式仏教の家に生まれ、お盆には仏壇に線香を上げ、クリスマスを祝い、結婚式は神道で。というチャンポンの「慣習」、全く信仰とはかけ離れた「儀式」によって「あぁ、俺って仏教徒かも。」などと考えていたのです。しかし、折にふれ聞くお経など、全く意味が分からないし、分からないものを信じることはできません。お釈迦様のありがたい話の現代語訳も、様々な神々が登場し、挙句「これを説明しても、(人間には)分からない」という結論であったり、やはり「修練によって神の域に達する」という、俗人の私にとっては超ウルトラCが、その信仰の究極目標であったりするのです。また、ギリシヤ神話のように、人間味溢れる神々、と言うコンセプトも、物語として楽しむには良いのですが、「じゃあそれが私の人生の何の役に立つのか」と考えると、雑学+以外に今一つなのです。

それに対して私たちの信仰は、こう言っています。まず①天地創造の神さまが確かに存在し、②その神さまがあなたのことを、誰よりも深く知っており、③その上で、(あなたがこれまでどんな人生を送り、自分自身をどんな人間と思っていようと)愛してくださっている、ということを。

そして、希望など見えない人生の底で、シャワー室で座り込み、泣きながら水に打たれている時も。一人グラスを傾け、窓からの夜の風景に、深くため息をつく時も。夜中に目が覚めて眠れず、体育座りで不安に思いを馳せる時も。神さまはあなたのすぐ傍に立ち、あなたを慰め、手を差し伸べて、再び立ち上がらせてくれる、ということを。

ですから、あなたの信仰の自由を、奪うつもりは全くなく。仏教も神道もイスラムも、必要であれば勉強して、その違いを知った上で、人類が「神」と呼ぶ、愛と恵みに溢れた主の元に、帰って来ればよいのです。

「神が自分の息子を捧げてまで、まず私たちを愛してくださった(Iヨハネ4:19意訳)」から、私たちも他人を愛することができます。ムカつく相手に対しても、少なくとも愛する努力はできます。そうすれば自ずと、不信や疑い、裏切りへの恐怖といった感情も、いつか友情と和、愛にとって変わられることを、私たちは知っています。

だから、「あなたを愛してくださっている」この唯一の神さまを、あなたに知って欲しいのです。

「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。
わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。
あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、
川を渡るときも、あなたは押し流されない。
火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。
わたしの目には、あなたは高価で尊い。
わたしはあなたを愛している(イザヤ43:1~2、4)。」

「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛して下さったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです(Iヨハネ4:9~11)。」

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<Q2. 神を信じるのは、弱い人のすることではありませんか>
2007-04-13 Fri 17:01
<Q2. 神を信じるのは、弱い人のすることで、意志の強い、まじめな人には、必要ないのではありませんか。>

そうですね。「信仰」=「神頼み」=「藁をもつかむ思い」とすれば、そうかもしれません。
治療不能の病に冒された人・その家族は、効果があると言われれば、高価な薬、漢方、呪術、宗教――それこそ何でも、試してみることでしょう。
例は違いますが、借金まみれの人が競馬で最後の博打を打つ時も、「神さま仏さま、私を救ってください」と言うかもしれません。

しかし、私たちの信じる神さまの救済とは、肉体の癒しや経済的自立と言った表面的・一時的なものではありません。それは、仮に奇跡の癒しがその身に起こらなかったとしても。自分の持てる限りの生を、感謝して、幸福に生きることができる、人生に向かう姿勢のブレークスルー(革命)なのです。

悲しいことですが、人間は有限で、弱いです。肉体も、その意思も。年を重ねるにつれ、視力、心肺機能、脚力、記憶力――そうしたものが衰え始め、ある時病の床で天井を見上げる時に、自分の老いを気付かされるのです。これまで頼ってきた「健康」「頭脳」「仕事」――そうした物が瓦解して初めて、感じられる不安、絶望、恐怖…。

意思が強く、まじめな人であれば尚のこと、こうした人生の下り坂で、再び生きる希望と、勇気をもてるようになるべきだと思います。そして、人の弱さを知っている神さまは、苦しんでいる人のリハビリを支える、最高の整体療法士なのです。だからあなたも(できれば健康な内に)神さまと会ってみて下さい。困難の中にあっても、あなたは一人ではない。そう気付くことが、必ずできるはずです。

「胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。
あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。
あなたがたが白髪になっても、わたしは背負う。
わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。
わたしは背負って、救い出そう。わたしの救いは遅れることがない(イザヤ46:3~4、13)。」

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誰でも思う 質問集
2007-04-12 Thu 17:01
注:以下、筆者の私見ですので、読者の方の中には、批判・反対意見もあることと思います。その節はぜひ、ごとうにお声がけしてくださいね。
あなたの真摯な意見が、更に多くの人に、分かり易く、主のメッセージを伝える「声」に、磨きをかけてくれるので、お忙しいところお手数ですが、協力どうぞよろしくお願いします。
ごとう ひでたか 拝

今日から少し連作で、基本的なQ&Aをしてみたいと思います。
これらは、以下のような読者の方に、ぴったりの記事に仕上がっています。
「人並みの生活で、私とりあえず満足してます」
「毎日忙しくて目が回りそう」
宗教に頼るほど、私ゃ落ちぶれちゃいないよ」

あなたが上記のどれかに当てはまったら、ぜひ一度目を通して頂きたい。
宗教」という枠組みの中で、多分に誤解されている主イエスキリストのメッセージが、少しでも明確になればと望んで止みません。では、始めましょう。


<Q1. この時代に、神を信じることが必要でしょうか。>

A1. 現代社会は、とてつもなく広く、込み入った戦場です。その戦況は複雑で、刻一刻と変化し、この世の誰をもってしても、全て把握することはできません。それはまた、荒れた洋上を海図もコンパスもなしに、進むようなものです。

そして、人生には悩みが尽きません。仮に仕事がうまく行っても、家庭には苦味と沈黙がある。世の名誉を受けたとしても、自分の肉体は限界を超えて、立ち行かなくなっている。受験に成功、一流大学に入学が決まっても、生きるに足る目標が見えない。広い新居に移っても、実の両親とは確執があって、一緒に住むことはない。大金が手に入っても、それに伴うべき心の平安は、ますます遠のいている…。

なぜでしょう。なぜこれだ!と思って奮闘して、「登りつめた」「手に入れた」と思っても、その瞬間に抱いていた幸福の幻想が消滅するのでしょう。
なぜ「更に上」「次の高み」ばかりに目が行ってしまい、今ある生への喜びが得られないのでしょう。

<あなたへ示された回答>
その答えを示されて、聖書の中で主イエスはこう言っています。

「だれでも、わたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
いのちを救おうと思う者はそれを失い、私のためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。
人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう(マタイ16:24~26)。」

上記の文で大切な点は、①「自分を捨て、自分の十字架を負う」、②導いてくださる方、「主に従う」ということ、③「全世界を手に入れるよりも、まことのいのちを得る」ということです。

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「ワインが切れた。」
2007-04-11 Wed 18:00
聖書から引用します。主イエスが行なった最初の奇跡。ヨハネの福音書の中では、こう書かれています。

「主イエスが洗礼を受けてから、三日目に、ガリラヤのカナで結婚式があって、そこにイエスのお母さんも出席していました。主も、弟子たちも、その婚礼に招かれていたので、集まった幸福な家族たちと歓談していたのです。

さて宴もたけなわ、と言うところで、残念、ワインが底をつきました。そこで、主イエスの母が『ぶどう酒がなくなりました。』と言ったので、イエスは『女の方~』とお袋さんに一言こぼしてから、勝手口に向かいました。するとお母さんも手伝いの人たちに『あの方の言われることを、何でもしてあげて下さい。』とお願いしました。

さて、台所の外には、80~120リットル入る、石の水がめが6つあったので、主はそれに目を留めて、『水がめに水を満たしなさい』と言いました。手伝い人たちは指示通り、水をふちまで汲みました。
そこで、主は彼らに言われて、『さあ、今酌みなさい。そして宴会の幹事のところにもって行きなさい。』

さて、何も知らない幹事が、お手伝いさんから杯を受け取って、ワインに変わった水を味見してみました。それがどこから来たのか、彼は知らなかったので、花婿を呼んでこう告げました。

『誰でも初めに良いぶどう酒を出し、人々が酔っ払った頃になると悪いのを出すものだが、あなたはこんなに良いぶどう酒を、よくも今まで取っておきました。』

主はこの奇跡を、最初のしるしとして行ない、ご自分の栄光を現されました。弟子たちは驚き、感動して、主を信じたのです。」


<一番楽しく、幸福であるべき時なのに、ワインが切れる>
上記のように、結婚式の一番盛り上がっている時に、酒が切れたら興ざめです。コース料理のメインにかかる頃、「すみません、今日はもうワインが切れておりまして」と言われるようなモンです。私だって切れます。

まあ、感情論はそこまでに。私たちの日常を振り返ってみましょう。

あなたの人生から、喜びのワインが不足していませんか。
あなたの家庭から、幸せのワインが足りなくなっていませんか。

◎「全然大丈V!!」と言えた方、おめでとうございます。永遠にお幸せに。
◎「う~ん…」と唸った方、更におめでとうございます。なぜなら今、そのワインを再び満タンにして下さる方が、あなたの勝手口に立たれているからです。

すべきことは、その方の言うことを信じて、ただ従うことです。
そうすれば極上のワインが、あなたの人生に再び湧き出でるからです。

「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる(ヨハネ7:37~38)。」

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名もない女性から、今がんばっているあなたに
2007-04-10 Tue 19:17
「昨日」は私を滅ぼせなかった。ならば私は「今日」にも倒されない。


これまでの私は、貧困と病に囚われた、底辺の人生を送ってきた。
人々が「あなたは一体どうやって、この苦労を乗り越えてきたのですか。」と聞くとき、私はこう答えるようにしている。
「『昨日』は私を滅ぼせなかった。ならば私は『今日』にも倒されない。そして私は、何が起こるか分からない『明日』のことは気にしない。」

これまでの人生で私は、欲も困難も不安も絶望も、目の当たりにしてきた。そして常に自分の限界を超えて、戦わなければならなかった。今振り返れば、私の生は壊れた夢の残骸や、破れた希望の旗、粉々になった幻想で溢れた戦場だった。私の闘争は常に、圧倒的に不利な戦いばかりだったように思う。それらの戦闘で私は恐怖し、痣だらけになり、血を流し、そして年老いた――私の本来の年齢以上に。

しかし、私は自分自身に対する憐れみなど、これっぽっちも持っていない。すでに過去のものとなった悲嘆や後悔のために流す涙もない。私のような体験をせずに済んでいる、他の幸運な女性たちへの羨みもない。

なぜなら、私は生きたからだ。彼女たちはただそこに、存在しただけだ。
私は人生の杯の、底の一滴まで飲み干したが、彼女たちは表面に浮かぶ泡を味わったに過ぎないからだ。
私は幸運な女性たちが、恐らく一生かかっても知りえないことを知っている。私には、彼女たちの目には映らないものが、確かに見える。

人生の苦境で流した涙こそが、私たちの目を洗い流し、私たちに人生のありのままの姿を見せてくれる。
そして澄んだ瞳は、より高い目標を私たちに見せてくれる――人類の一員として、全ての人々の姉妹としての、目標を見せてくれる。

私は人生の学校で、ありきたりの生活を送る女性が望むべくもない、人生哲学を学んだ。それは不安に彩られた「明日」から、悩み事を借りてくることをせず、「目の前にある今日を、懸命に生きる。」ということだ。
暗やみの先に、ぼんやりと浮かぶ「将来」が、どれだけの人を臆病者に変えてきたか。私は人生という名の教師から、「あなたが恐れている問題の幾つかは、多分起きるだろう。しかし、その問題と共に、解決に必要な力も、知恵も、必ず与えられる。」と教えられた。だから、「明日」に怯える必要はもうないのだ。

心を乱そうとする日々の出来事も、もう私を困らせられない――「人生の至福のとき」が、音を立てて瓦解するのを見ているから。それに比べれば、調理人がスープを濃く作りすぎたり、ウェイターがおしぼりを忘れていることなど、全く問題でなくなる。

私はまた、他人に多くを期待しないことを学んだ。だから私は、時に陰口を叩いてくれる友人や、ゴシップ好きの知人などともやっていける。そして一番自分のためになっているのは、ユーモアのセンスだ。人生には、それこそ数え切れないほどの、「笑うか泣くか」どっちかしかない出来事がある。そして、もし女性がヒステリーの代わりに、自分の不幸を笑い飛ばすことができたのなら、何も彼女を傷つけることなどできはしない。

私はこれまで通過してきた困苦を振り返って、後悔するどころか、感謝している。それらの試練のお陰で、私は生のふところの深さを知った。そしてその教訓は、私が支払わなければならなかった対価以上に、素晴らしいものだった。


今、職場で、家庭で、人生の戦場で、歯を食いしばって頑張っているあなたへ。あなたは決して、一人ではありません。そしてあなたの苦悩は、必ず理解や、優しさや、思いやり言う財産になって、あなたに返って来ます。

だから今は、耐え抜いて。そして「そんなの無理!!」という時でも、微笑んでください。
それがあなた本来の、美しい顔なんですから。

「あなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に合わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます(Iコリント10:13)。」

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父なる神
2007-04-09 Mon 16:26
神さまが創った第一子 ―― アダムと、その伴侶イブ。私たちが自分の子どもの扱いに苦しむように、天のお父さまもそのおばか加減に困っていました。

だから神さまが、彼らに最初に言ったことは「~してはならない。」

「何しちゃいけないの?」と聞くアダム。
「禁断の木の実を食べてはいけないよ。」と神さま
「きんだんの木の実?きんだんの木の実があるの?!
イブ、すげ~よ、きんだんの木の実があるってさ!!」

「だから…」神さまもあきれて返事すると、
「どこにあるの?」と元気よくイブが質問。
「だから食うなって言ってんの!!」と神さまはキレ気味に諭します。
「何で?」とアダム。
「なぜなら」一息ついてから神さま、「お前の創造主がそう言ってるからだ!!」
神さま、何でキリンとゾウの後に、人間など創ってしまったのかビミョ~に後悔しつつ答えます。

数分後、神さまが庭に戻ると、案の定不安的中。二人が禁断の木の実を頬張っていました。

「わたしはその実を『食べてはいけない』って言っただろう?」迫る神さま。
「う~ん、そうね…」と言葉を濁すアダム。
「じゃあ何で食べちゃったの?!」
「わかんな~い。」イブもしらばっくれます。
「イブが最初に食べたんです!!」とアダム、会心のチクリ。
「私じゃないわ!!」と返すイブ。
「いいや、お前だ。」
「私じゃないもん!!」

二人の罪のなすりあいに辟易とした神さまは、その罪の償いとしてアダムとイブに、
「お前たちも子どもを設けて、この苦労を味わうように。」と告げました。

それ以後、「おばかな子どもを育てなけらばならない」という罪の償いが、人類に課せられましたとさ。

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こんな「しょ~もない」人類を、神さまは愛せるのか
2007-04-08 Sun 18:00
イエスキリストの愛と恵みについて、ある読者とブログ上で話をしていた時、こんな質問がありました。
「『神さまは人を愛している』って言いますが、戦争や自然環境破壊、動物の種族絶滅などの罪を――取り返しのつかない罪を――犯している人間を、本当に愛せるのでしょうか」

そうですね。

悪に染まった人間はいる。
富貴や権勢を愛する勢力が、この世界を支配している。
コーランや聖書に、彼らの隆盛も予言されている。

そして、彼らの隆盛に続いて来る、世界終焉の兆候も。
今日、確かに、数多く見受けられます。


世界には現代医療で扱えない病が横行し、またスペイン風邪(過去に大流行した“鳥インフルエンザ”の一種。世界人口の50%が発症した)の再来があるのでは、と医療関係者は毎年恐々としている。
キリスト教徒を名乗る大統領が、中東に侵攻し「報復戦」と称して大量虐殺を行なったこと。それによって新たに、怒りに燃える遺族や戦争孤児など、かつて無いほど可能性テロリスト人口が増加した。
異常気象。水害、旱魃(かんばつ)。特に、これまで内戦などで疲弊してきた南アフリカの国々では、環境変化に人命が大きく影響され、食糧難・水不足から、今この一瞬にも生命が喪われている。

「文明」「経済発展」「人間らしい生活」――そうした名目で、人間が追い続け、駆け足で登りつめ。結果自分で招いてきた、多くの弊害。神さまは、そして地球は、一体いつまで、私たち人類の勝手気ままな横暴を、許してくれるのでしょうか。


そう、考えれば考えるほど、ネガティブなのです。
1000年先、いや100年先を望むことが、困難なほど。
人類の未来は確かに「お先真っ暗」なのです…。


<人類の終焉の時に>
ヨハネの黙示録の中で、主イエスキリストはこう言っています。

「わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精錬された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現さないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。
わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい(黙示3:18~19)。」

私たちにそう忠告した上で、主は続けます。

「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。
勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。(黙示3:20~21)」と。


上記の、この二つをつなぐ物は、一体何でしょう。
①世紀末色に塗りつぶされた、この世界。絶望と恐怖に溢れた、この現代社会。
②そして、主が示された救いへの道…。

それは、こういうことではないでしょうか。


<自分自身を守り、救うために。完全なる自己中心的動機によって>
まず私たち一人ひとりが、神さまが与えてくださった地球、自然、生命の重さ、そういったものを再認識すること。
自然を守り、周囲で緑を増やす努力をすること。
生命の危険や、困窮に喘いでいる人たちを、一人でも多く支えてあげること。
これまでの大量消費・大量廃棄の生き方を改めて、まず自分自身のために、自分の家族のために、できることを始めること…。
愛を広めるために、まず自分の家族を労わり、困っている友人の話を聞き、知り合いに近況報告のメールを出すこと。

世界を変えるために私たちができることは、何も難しいことではありません。
政治学、開発学の博士号が必要なことでは、全く無いのです。
スーパーヒーローは、この際不要です。私たち100人の、小さな努力、毎日繰り返される小さな心配り、奉仕の方が、一人の英雄の努力に絶対勝っているのですから。


日々の困難に負けず、信仰と希望をしっかりともって、行動する者を、神さまは救い上げてくださいます。それが私たちの信じる、努力への報酬です。

だから、前を向いて、「たゆまず善。」
嵐は来ます。しかし、それから目を背けず、
まっすぐ立って、一歩一歩前進していきましょう。

神さまがともにあり。隣に、堅く握りしめた戦友の手があれば。
私たちはどんな困難にも立ち向かえることを、知っています。


「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。
わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。
あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、
川を渡るときも、あなたは押し流されない。
火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。
わたしの目には、あなたは高価で尊い。
わたしはあなたを愛している(イザヤ43:1~2、4)。」


<おわりに>
私たちは、この末期的な世にあっても、神さまの子どもです。
神さまは私たちを、愛してくださっています。

周囲の批判に拘わらず。この愚かで「しょ~もない」人類を、
確かに愛してくださっているのです。

いつも応援感謝しています。
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